恵まれた?私と?

手話をコミュニケーション手段としたスターバックスが日本にオープンしたのを知っていますか? 6月27日、東京国分寺にオープンしたそうです。日本初で世界では5店舗目、だそうです。聴覚に障がいのあるパートナー(従業員)からの「自分たちでお店をやってみたい」という声から実現したとのことで、とても行ってみたいのですがまだ行けていません。25人のパートナーのうち20人が聴覚に障がいがあり、店では手話のほか、タブレットや指差しで伝えるメニューシートなどを使い注文できるそうです。今後こうした店舗を全国に波及させる予定だそうですが、実際どうなるのでしょうか。

個人的には身体障碍者に限らず、総じてハンディキャップを持っている方への支援と言うとおこがましいですが、サポート、お手伝い、関連する様々な取り組みなどに以前から関心を持っていまして、とても注目していたニュースでした。実はオープン前から知っていたので、あ、もうオープンしてたんだ!という感覚です(もっと注意してアンテナ張っとけ、て話ですが)。

小学校の時、点字や手話を知り、それからずっと、やってみたい、使える人になりたい、と思ってきました。そして今、全くと言っていいほど使えません。情けないです。

実はもともと、私が点字や手話に興味を持ったのは、犬がきっかけです。なんじゃいそらと思うかもしれませんが、犬が大好きだった私は、犬関連の子供用の知識を教えてくれるような本をたくさん読んでいました。そこで出てくるのが補助犬です。聴導犬、介助犬、盲導犬です。「犬はやっぱり人間のパートナーなんだ!すごい!」という単純で大変子供らしい感想を持っていたのですが、それがきっかけで、ハンディキャップを持つ方々の世界に興味を持つようになりました。少し勉強していくと、身体的障碍の他にも、様々な障碍、例えば学習障害などがあることを知りました。個人的にはパラスポーツ大好きです。(専門的知識を正しく身につけているわけではありませんので、どこかおかしな部分があるかもしれません。すみません)

そこで自分が持っているであろう視点は、
・支援する側の視点
・自分の周りにない新しい世界への純粋な興味
の二つに大きく分類されるのかな、と思っています。

昔は純粋な興味でした。今は支援をする側の視点が強くなりました。ハンディキャップを持っていない人間がその世界を学ぼうとすると、そうなるからです。でもそれって支援なんでしょうか。いまさら支援と言う言葉に疑問を感じます。ただ私がマジョリティに属するから、学ぶこと、使うことが支援になるのだとしたら、と考えると、モヤッとしますね。(支援者に対して失礼であることは自覚していますが、これはあくまで「私」が「支援」をする、という観点で見た際の違和感です。嫌な思いをした方がいたら申し訳ないですが、あしからず……)

手話に限定して考えてみます。手話は言語体系が違い、日本語とは別の「言語」だと言います。そう考えると、英語やタガログ語などと扱いは一緒です。英語圏の国で、日本語が第一言語である住人への「支援」として、日本語表記を増やしました、と言われたとしましょう。んンンンンん!? 共存のための、そこで暮らす住人のための、当然のケアではないのか。と、私なら思ってしまいます。私の世界の中心は紛れもなく私なので。

マジョリティであるその時点で私はある観点から見れば恵まれてるわけで、そこから考える支援、と言う視点ももちろん必要です。ただ、例えば私が今から手話を習うとして、それは興味ではいけないのでしょうか。それでは失礼でしょうか。点字を打ってみるとして、それは遊びのように感じられてしまうのでしょうか。例え遊びでも、関心を持ったことに対して当事者はどのように感じるのでしょうか。結論は出ません、謎は深まるばかりです。

それでもやはり興味を持つ私は、これからもなんらかの形で関わりたいと思うのだろうと思います。

まとまっていはいませんがこれが今の私の正直な気持ちです。また変わるかもしれませんが残しておきたいと思い、投稿しました。

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