普通でない?世界と私

最近、世間の性的マイノリティへの理解が深まっているようなそうでないような印象を受けています。その中で、いつも思い出す自分の経験があります。

どこかのトイレに並んでいた、まだ幼かった頃の話です。
大変おぼろげな記憶ですので、どこだったか、いつだったか、全然わかりません。
そのトイレに並んでいる場所に、貼ってあった記事?がありました。そこには、女性同士での結婚式を挙げた旨が書いてありました。

自分がどういう価値観で生きていたのか、私自身わかっていません。ですが幼い頃の私は、他人に言われるまで人の苗字や名前が珍しいことも、キラキラネームだということも全く気が付かないほど、ある意味世間知らず、よく言えば偏見のない人間でした。例えば(私の経験とは全く違いますが)、ゆみちゃんとハートちゃんという名前の子がいたとして、「へー、あなたゆみちゃんね、あなたはハートちゃんね、よろしくね」くらいしか思わない、という感じです。その時も、ただただ幸せそうだと、むしろ二人とも綺麗だなーとかしか考えていなかった私の耳に飛び込んできたのは、信じられない会話でした。

「女同士で結婚なんて、気持ち悪いね」

これは気持ち悪いことなのか?この人がおかしいのか?気持ち悪いってひどい言葉じゃないのか? 正直私の脳みそはその言葉を処理することを諦めました。嫌な感情だけ残って、今までずっと心の奥にあります。

そして今、この経験を改めて振り返って、思ったことがあります。

彼らを性的マイノリティと括っている自分から、同じ人間としか認識していなかった昔の自分に戻りたい、ということです。

自分の感情を振り返った時、その記事を見た私は確かに二人とも綺麗、で止まっていました。女性同士で結婚している、というのはただの事実であり、そこに対してなんの感情も抱かず、ただただ綺麗だと。今の私だったら?と考えた時、私はこう思うでしょう。「女性同士で結婚するのは大変なこと。たくさんの障害を乗り越えてきたのだな、幸せになってほしいな」と。

別にそれは悪いことではありません。むしろ、大変さを理解しているという点に関して言えば、理解が深まったとも言えるかもしれません。しかし同時に、自分と線引きをしています。自分が将来したいであろう結婚よりも大変なのだろうと。

そう考えた時、知識を得た上で、それでも同じ人間としてしか見ない視点を取り戻したいと思いました。

もちろん社会的問題を論じる上で、知識も大変だという観点も捨てるべきではありません。そうでないと議論が始まりません。ジェンダー問題に関しても、女性でバリバリ働いている人が無理をしている姿を見て、すごいなーなんて言っている限り、議論は始まらないし改善もされないでしょう。しかし、問題化することが、カテゴライズして自分との違いを見ることが、いつもいつも必要かと思うと、それもまた違うような気がするのです。

この考えはこれから先、私の中で変わるかもしれません。
しかし、なんの偏見もなくただの人間の行いとして女性同士の結婚を見ていた自分の感情は、確かにありました。そこに社会的障壁は見えていませんが、大変さを抜きにしてお祝いをする底抜けの明るさもあると思います。大変だったね、がんばったね、と言ったって良いと思いますが、それを抜きにして心の底からお祝いを言える人間になりたいものだと思います。

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