論語1

ジーフーは高校生の時に漢文というものを初めて習いました。

そこで訳の仕方(レ点とか一、二点とか)を覚えて書いてある事の意味を知るというが大体の流れでした。

元々、横山光輝さんの三国志を漫画で読んだり、KOEIの歴史シミュレーションゲーム、三国志が好きだったので中国のものには少し興味があったのかもしれない(まあそれ以上に当時は古文に興味が無さすぎて漢文の方ばかり内職してたのが大きい)。

また文の冒頭に出て来る「いずくんぞ」とか「いわんや」の響きに(何かカッコいい)と思った記憶があります。

そして大体習っていたのは、孔子の「論語」だったように思います。

論語は岩波文庫の訳語が書かれた本を持っているのでたまに読み返すのですが、ちょいちょい勉強になります。

そんな訳で中国の故事や書物の一節について自分なりに思う事を書いていこうと思いました。論語でも何でも書いてある事を自分なりに生活に活かしていきたい、そう思います。


最初の投稿は、論語の一節

子曰く「学んで思わざれば即ちくらし、思うて学ばざれば即ちあやうし」

現代風に書くと、先生は言われた「学んでも自分自身で考えなければあんまり意味ないよ。自分の考えだけで他から学ぶことをしなければ危険だよ」


ちなむと最初の「子」というのは「先生」という意味で、「孔子」は「孔先生」となります。孔先生は「孔丘(こうきゅう)」という名前で、苗字が「孔」で、名前が「丘」です。その他、「老子」、「孫子」、「孟子」、「荀子」、「韓非子」、「管子」などなどは全部「○○先生」という敬称になります。


はい、では話戻しまして上の一節について、自分の生活にどのようにして活かしていくと良いのかを次に考えていきます。

別の投稿「これからの時代に増やしたい評価方式」でも書きましたが、一旦加点方式の書き方にしてみたいと思います。

「学んで自分自身で考えれば意味あるよ。自分で考えて他からも学べばとっても良いよ。」

ポジティブな感じになりました。ちょっとした言葉遊びであんまり意味はないです。


さて、生活に活かすために普段自分が思う事としては、「学ぶ」を「知識」に「思う」を「行動」や「経験」にした場合です。

少し昔話になりますが、ジーフーが社会に出て新入社員が一斉に集められた研修の最初の日、講師の方は言いました。

「君たちはエリートなんです。自分たちではそうは思わないかもしれないけれど、何の実績もない人に年間数百万の給料が払われるなんてのはこのご時世なかなか無い事なんだ。 しかし君たちには弱点がある」と。

「それは、何か目の前に課題が出てきたときに、まず君たちは腕組みをして頭を働かせようとする。だが世の中にはすぐに手を動かした方が良い事も沢山あるんです。その事を頭の中に入れておいてください。」

聞いた時は、座学の時いつもしていたように(ふーん、そうなんだー)でしたが、研修が進むにつれて少し言葉の意味がわかってきました。講師の方が言った通りでした。

グループセッションにおいて、すぐに手を動かす人はいつも少なく、ほとんどは他の人の意見や行動に「あーだこーだ」とコメント、口出しするだけでした。若い時分からこれではいかんと新米心ながらに思いました。

その後も仕事や生活をしていくと、一緒に現場に行ったり、手を動かしたり自分自身で経験をしている人とは信頼関係を構築しやすく、口出しするだけの人とは関わらなくともあまり困ることはなかったように思います。

少し知ったら後は行動しながら知識を入れてまた行動していく、のが良さそうだとジーフーは思うに至っている訳です。そのため知識のインプットと行動、経験のアウトプット、両方やっているかな、とたまに振り返りながら暮らしていきます。


このブログも続けていく中で勉強していったら段々と上手になるだろう、と思ってこれからもやっていきます。

記事を読まれた方がいましたら、論語の解釈でも、ご自身の経験談でも何でも良いので共有してもらえたら嬉しいです。

つづく

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