汚物の匂いがあたりに充満する。 雨が降り、汚物が溢れだしてきた。 病気がまん延している。病院は重なる空爆でまともに機能していない。食料もないが薬もない。医者も足りない。衛生状況も悪い。 爆発に巻き込まれ足を切断された子ども、腕を火傷した子ども、頭に深い傷を負った子ども。 治療さえできれば助かる。 しかしその治療が難しい。 雨がさらに環境を悪くする。 時には恵みの雨と形容されるが、こと今に限っては呪いのようだ。 雨が黒い。 かつて遠い島国で黒い雨が降ったと聞く。 それは原爆によ
赤い涙。 白地に赤い絵の具で描く。筆を滑らせ赤い滴るような涙を。 巨きな悲しみがある。 名前が読み上げられる。 死者の魂を思う。 筆を動かしながら祈りを捧げる。 どうか安らかでありますように。 名前と共に享年が読み上げられる。 何歳であっても悲しみは拭えないが、ことさら10を下回る年が読み上げられるといたたまれなくなる。 お腹いっぱい食べることもできないままに、迫害差別を生まれながらに受けた上に未来を閉ざされる。 明るい未来を夢見ることもないままの人生だったのかもしれない。
「ばぁば、そらが今日はあおいね」 「そうだねぇ」 「けむりもないし焦げたにおいもない」 少女はうれしそうに笑いうたった。 どこからか野良猫があらわれて、のんびりとにゃぁと鳴いて横になり日向ぼっこを始めた。 ばぁばはなにか食べ物を探しに家に戻る。 少女の兄が片足を引きずりながらやはり笑いやってきた。 少女は太陽に照らされながらうたう。 日常のなんてことのないことをうたう。 兄も一緒にうたう。 音符が踊り出す。 ばぁばは隠してあったクッキーを思い出して持ってきた。賞味期限は切れて
虚ろな眼で鉄の棒が並ぶ隙間の空間を見つめている。 蝿が飛び、額に張り付く。 指一本一ミリも動かせない。払うこともできない。ただただ虚ろな眼でこの世とあの世の狭間を見つめている。 薄汚れた白いプラスチックの皿に、冷えた固いパンが乗っていた。棒の隙間から差し出される。 暗闇に複数の目が開く。 静かに息を潜めて、静かにいのちを温存していた者たち。 這いつくばって皿に近寄る、我先にと手を伸ばすが、すべての手は寸前で止まる。 誰もが腹をすかしている。誰もがかぶりつきたい衝動に駆られてい
無数の目がぼくを撃ち殺す。 負けまいと見返す。世界がぼくたちを見ていると感じる。好奇の目で見てくる。カメラを構えてくる。 どんな想いでカメラを構え、写真を撮り、動画を撮るのか。再生数はどれだけ稼げましたか? たくさんの目が言う。 こんなことしても意味がないのに。ただの偽善だ、と。 ぼくたちの側には決して来ないという意思の波動に飲み込まれそうになる。 声をあげること。連帯を示すこと。抗うこと。誰が為に? 脳を打ち震わす。視界が狭まり、暗くなり、意識が消える。 ぼくは、いつしか瓦
そこに在るのは、黒く濡れた丸い塊だった。 ざくざくと夜の砂浜を突き進む。 そこに在るのは、濡れた毛と肉の塊だった。 「ねぇ、いのちはどこにいくのかな?」レイは塊の傍らに座り込んだ。 そこに在るのは、ガスで膨らんだかつて獣だった今はただの腐敗しつつある物体。 どこだろ、と言ってイチは足元の砂を掬い、拳にした手からサラサラとこぼした。 「溺死ってすごく苦しい、一番苦しい死に方だって言うけど」「誰が確かめたの?」「さぁ。死んだらわかんないのにね」「苦しくない死ってあるのか
1 キャットタワーを組み立て終えリビングに設置する。組み立てのときから登っていたけど、完成したものに猫が登り寛ぐ姿を見たら、ほっとした。やっと肩から強張りがとれた気がした。 家具のないがらんとした空間。フローリングに直に尻をつける。ソファーもなければテーブルもない。テレビは床に直に置いてある。ずいぶん視線が低くなった。そして空間を広く感じる。 もう十日。まだ十日。鮮明なようで薄膜のかかった記憶を辿る。 去年の豪雨被害のあった被災地にボランティアに行き、目に光景を焼
「暴力は絶対ダメなのは前提だけど、でも彼の気持ちわかるわぁ」 「彼の社会的背景として派遣労働者という弱者であり」 「おれも持ってるで牛刀。よく斬れるで」 「勝ち組女性の上から見下す目線に何度刻まれたことか」 「どうせ挑発するような顔したり服装だったんでしょ」 絶句した。 SNSはある意味地獄だと思った。匿名だからこそなんでも言えてしまう。そして、悪意がないものが多いのがわかるだけにより根が深いと感じる。 被害者がいるのに、なぜ加害者にばかり共感してしまうのか。そしてそ
大好きな作家が大きな賞をもらいハッピーだったのもつかの間、人の死、自ら選んだ死は風景を真っ暗にする。 毎日お祝いできる日々だといいよね。 ふと思う。 毎日だれかが生まれた日。今日もいきている日。 おめでとう。ありがとう。 悲しいことがあっても、おめでたいこともあるのだ。
「ねぇあなた」 低い落ち着いた声が不意に耳に触れた。そっとそちらを向くと、白髪に眼鏡をかけた落ち着いた雰囲気の老婦人がいた。はい、と返事をした。 「ねぇ、これをお持ちになって」 すっと差し出されたのは凍らせたペットボトルだ。 ああ、と思った。片手に持つスコップに知らず力が入った。 「ありがとうございます」丁寧に言い、ありがたく受け取った。 「今から行くんでしょう?ご苦労様です。がんばってくださいね」 はい、と顎を引いた。 目頭が熱くなる。 誰もが気付かないスコップ
勇気の欠片をポケットに入れて 3回叩くと勇気が増えるかな 臆病な僕は一歩が踏み出せない 世界が牙を剥いている 誰かの手間を引き受けて 今日も舌打ちをする 世間の流れは早すぎて 生き急ぐ人が多いのかな 僅かの時さえ待てずに 鳴り響くクラクション 倒れた人を踏みにじり 笑顔が通りすぎる 豊かな人はさらに富み 貧しき人はさらに堕ちていく この世は残酷だ だけど だけど この世は美しくて 僕はそっと涕する 悪意の種を仕舞い込んで 人を叩くと銭が増えるのかな 欺瞞に満ちた
涕が零れた。 ぽろぽろ。ぼろぼろ。 これはなんだ。僕の涙腺は壊れた。 音楽に心が揺さぶられた。 言葉に感情が震えた。 男性ピアニストと女性ギター兼ボーカリストのユニットのライブに来た。知り合いの知り合いらしくチケットが余ったのをもらった。客が少ないと可哀想だからよかったら来てくれと頼まれた。なんとなくの暇つぶし程度で足を運んだ。 特に期待はしていなかった。ただ音楽を聴ければそれだけでそれなりの満足があるかと思っただけだ。でも違った。 ピアノが鳴るたびに心