崩れたこちら側

 キャットタワーを組み立て終えリビングに設置する。組み立てのときから登っていたけど、完成したものに猫が登り寛ぐ姿を見たら、ほっとした。やっと肩から強張りがとれた気がした。
 家具のないがらんとした空間。フローリングに直に尻をつける。ソファーもなければテーブルもない。テレビは床に直に置いてある。ずいぶん視線が低くなった。そして空間を広く感じる。
 もう十日。まだ十日。鮮明なようで薄膜のかかった記憶を辿る。

 去年の豪雨被害のあった被災地にボランティアに行き、目に光景を焼き付けてきた。災害ゴミが山になっていた。泥や土砂が道や田畑に積もっていた。家の中にも泥はたまっていた。その光景がいま、目の前にある。
 肌寒い晴れた朝。太陽が大地を真っ赤に燃やしていた。
 道にも庭にも泥が溜まり、藁があらゆるところに絡まっている。どこか腐ったような匂いがしていた。夢でなく現実。どこか浮足立つ。世界が一変しますと天気予報士が宣言して、台風が千葉を襲ったのは先月のことだ。それから一ヶ月のうちに、もっと広範囲で世界を荒廃させるとは誰が想像しただろうか。そして、自分がその渦中に直面するとは。
 まさか。まさか、と思う。
 でも。でも、とどこかで思う。
 ついに、来たかと。天災は順番待ちなんだ。いつ来るかはそれこそ天のみ知るところだが、誰にでもいつでもやって来るのだ。天災に強い土地だと地震や台風の被害を見るたびに思っていた。でもそれはほんの少し運が良かっただけなのだ。痛いほど思う。

 猫たちに声をかけて二階の部屋を出る。階段をおり、泥にまみれた一階に長靴を履いて降り立つ。泥に滑りそうになりながら悲惨な状況に胸が痛んだ。一通り見て回り散乱するゴミや浸水した家具類や家電を横目に庭に出た。泥が地面を覆い、流されてきたゴミがあちこちにある。大きな木材や田植えの時に使う一メートル四方ほどのアルミ製ラックまであった。
 玄関わきにあった灯油用のポリタンクをしまっておく木箱が松の木に引っかかるように寄りかかっていた。流されずによくいたなと思った。台風の到来に備えてはいた。強風に注意と言われていたので、軽いものは家の中にしまった。重いものは壁などにつけたりして風の影響が少なくなるようにしていた。物が飛んで誰かを、誰かの物を傷つけないように。
 そんなことを嘲笑うように、風でなく、水がすべてをさらっていった。泥と藁を置き土産にして。それでもしまえるものはしまっておいてよかったと思った。
 庭先を見ているとどこからか流れてきた玄関マットが何枚もあった。風が強いと言われてるのに、マットをしまうことさえしない人の多さに、バカのお気楽がと毒づいた。
 鉢植えなどもある。あきらかなゴミもある。なぜしまっておかないのだ。それで誰かが怪我をしたらと思うことはできないのか。飛んでもかまわないと思うのか。被害の大きさに嘆くよりも、あれだけ危険を訴えた予報士の声が届かない人がこれほどいるのだということに呆れ、そのことに嘆きたくなった。
 そしてなんの対策もしなかった人ほど他者へ当たる。自然災害でもって行き場のない鬱憤を八つ当たりにして発散させるものだ。
 表通りに出てみると、同じように様子を見ている人があちこちにいた。すでに片付けを始めている人もいた。眠れない夜を過ごした人々。現実に呆然としながらも手を動かすことでまぎらわせてるようにも見えた。
 さらに近くの会社から流された数メートルの大きさのコンテナが道をふさいでいた。あんなものまで流されていたのか。確かに箱だから浮くのだろう。それにしても意思をもったかのように道なりに進んだのだなと感心する。コンテナにまで鎖を付けなくては安心できないのか。木材もしかたないのだろうか。
 コンテナは道の両側にある信号機の柱にひっかかっていた。手押しの歩行者用の信号機は押しつぶされてだらんと垂れ下がっていた。そのすぐ隣には古い一軒家がある。当たっていたら倒壊したかもしれない。そこに住む人は、コンテナが迫るのを見たのだろうか。眠りにうまくつけて見ていないだろうか。夜中でもあり暗がりでありわからなかったかもしれない。恐怖を感じないでいられたならそれに越したことはない。割れた窓があり、扉もへこんでいるように見えた。

 異変を感じたのは昨夜の二十時すぎ。雨が長々と降り続き、赤色灯が窓に反射した。少し外の様子も見たいと思い長靴を履いた。
 すでに足首くらいまでの水が一面になっていて、珍しいなと思ったが、まだまだ余裕はあると思っていた。
 家の前の道の側に小さい川がある。その川は大雨でたまに水が乗り越えることがある。それによって、その近くの低い家が浸水することは過去に何度かあった。
 それでもかなり降ったときに、その近くの低い家二軒が浸水するだけだった。床上までいくのも十年に一、二回あるかないかだ。
 我が家はまだ数十cmは余裕があり、そこから床上にはさらに三十cmはある。玄関までも来ないだろうと楽観していた。
 川から水が溢れたことで消防団が道を通行止めにした。こんな日の夜に出かける人もそういないだろう。ごくろうさまですと声をかけ帰宅する。
 激しい雨の音というほどでもないが弱くはない雨の音を聞きながら各地の様子を伝えるニュースをみていた。
 このあたりも遅れて特別警報が出たのを知る。そういえば避難メールが来てたなと思った。ふと気づくと猫がしばらくいない。また虫でも見つけて遊んでるのかもしれないと腰を上げた。
 玄関に二匹ともいて、手で段差の下の土間部分を触ろうとしている。やはり虫か。さっき開けたときに入ってしまったか。やれやれ。
 猫を抱き上げ、土間部分を見てギョッとした。動きが止まる。思考が一瞬停止したあと高速回転する。もう一匹の猫も抱き上げ二階へとかけ上がる。部屋に押し込みドアを閉めて一階へと降りた。
 二階はまったく使っていなく、いらないとさえ思っていた。
 定年後に住むためにと叔父が買った家に住まわせてもらっていた。残念ながら定年を待つことなく他界したために母が相続し、続けてそのまま住んでいた。一人と二匹には持て余す広さであった。だが、この時ほど二階にありがたみを感じたことはなかった。もしなかったらと思うとぞっとする。
 もう一度玄関を凝視する。
 間違いない。水が入ってきていた。すでに二十cmほどの水位に。時刻はまだ二十一時にもならない。二十四時くらいまで雨の予報だ。それほどずれることはないだろう。あと三時間もある。床下でしのげるか?いやだめか。さっき外を見てからわずか三十分やそこいらでこれだ。あと三十分もすれば床上まで浸水するだろう。
 さっき母から大丈夫かと電話があり大丈夫だよと答えた。我が家の二軒となりの家は床下まで浸水したみたいだよ。いつものことだからしかたないね。でもうちはまだまだ余裕あるよ、と言ったのが嘘のようだ。
 とりあえず母に電話をして、玄関が浸水したことを告げた。「もうしかたないから大切なものだけ二階に上げな。あとは止むのを祈るだけだね」と言われた。
 電話を切り、大切なものはなんだろうかと考えながら、猫の餌や猫砂を二階にあげる。猫の給水器と猫トイレもあげ、とりあえず明日の片付けのための作業着や着替え、タオルをあげた。
 あとは大切なものだ、とリビングを見回す。奮発した大型テレビが目につく。これをあげる?無理だな。重すぎる。そもそもテレビなんて大切なのだろうか?そう思い、問いかけた。なくてもいい、と諦めがすぐにつく。同じく冷蔵庫なども。そう思いながら見ていくとソファーもテーブルもあれば快適だし便利だけど、大切かと聞かれたら頷けない。すべていいやと二階に行こうかなと動きかけて、いや待てよと思い直す。
 本があった。
 リビングにある大きな本棚の前に立つ。中には大好きなあの作家やあの作家のサイン本も。そう思うや本をどんどん高い棚へと移したり、キャットウォークに上げた。低い位置の本を上げ終わると、そうだ音楽もだと思った。CDやDVDも上げて上げて上げた。高い場所が埋まっていく。一mの浸水までなら大丈夫だろう。それを超えそうになったらその時は二階にあげよう。
 あとは何ができるか。何をするべきかと考える。
 そうだ。ふと思い出した。台風に備えていろいろな人がいろいろなことを呟いていた。その中にタンスの下の棚のものは出しておくこと。水で中の服やシーツなどの布類が濡れたら重くて開かなくなるから片付けに苦労するという声を思い出した。ありがとう。一階に一部屋だけある和室に入る。一歩踏み入れると体が傾いた。
 畳がぐにゃぐにゃとしてふらふらする。水に浮かべた板に乗る感じだ。床上に水はまだ来ていなかったが、床のすぐ下までは来ていて畳は水を吸っていたのだ。浸水の時には和室が最初に沈むのだなと学んだ。
 ふわふわする歩き心地でタンスに近寄り、手早く下半分の中身を出していく。同じように押し入れの下の段のものを上の段にあげた。これが結果的に正解だったと後で知る。台風被害にあったことのある経験者の声はやはり貴重だ。
 和室を出る頃には床上まで水が来ていた。濡れた靴下を投げ捨て、裾を膝まで捲る。足が冷たい。額からは汗が落ちる。
 台風で籠城するために買ってあった食料と飲み物を持ち二階に行き猫を撫でると一息ついた。猫はおとなしくなっている。なにかを感じているのだろう。時折窓から外を見ていた。
 少し休んでから水が出るうちに猫用の水をもっと確保しようと一階に降りた。水位はあがり膝に達しようとする中をじゃぶじゃぶ歩く。足の裏にぬるぬるしたものを感じた。泥も入ってきている。まるで漫画か映画みたいだと、この非現実的な現実をどこか楽しむ自分がいた。土嚢袋を用意していれば防げた程度なら後悔もあったかもしれないが、そんなレベルを越えてるので諦めもついた。こんな経験をした人はまわりにいない。そう思うほどにこれはネタだ。ネタにするしかない。そう思うと心は凪いだ。よく見ておこう。経験は貴重だ。
 ふと玄関のすりガラスを見ると中より十五cmくらい水位が高い。ドアはすごい。こんなにも侵入を防いでいるのだな。思い立ちドアを開けようとしてみる。びくともしない。水圧で開かなくなるというのは本当だなと納得して、ポットに汲んだ水と凍らせておいた水のペットボトルを抱えて二階にあがる。猫を抱きしめ、雨の止むのを待った。
 不意に電気が消えた。少し前に母から電話があり停電したと聞いていた。こっちはまだ大丈夫だよと言ったがそうは持たないと思った通りになった。階下に降りてブレーカーを落とす。懐中電灯の丸い光で見るリビングはいろいろな物が浮いていた。キッチンを見ると冷蔵庫が傾いて壁に寄りかかりながら浮いていた。浮力ってすごいなと感心する。トイレや湯船から逆流するとテレビで知っていたので確認に行くが、どちらもまだ大丈夫そうだった。水嚢を入れておくべきだろうかと思うも大丈夫そうなのでそのままにした。水道をひねるとまだ水は出た。一口飲みのどを潤す。
 不意に警報音が鳴り響く。なんの音だろう。明滅する光が窓から零れる。ハッと思い窓から覗く。嗚呼。
 車が水没している。こんなことになるとは思わなくて車はいつものところに停めてあった。もうダメだとわかるほどの水位だ。外は一mくらいにはなってそうだ。
 悲痛な叫びがいつまでも続いた。もう啼くなよと思いながら断末魔の叫びを聞き逃すまいと耳をふさぐことはなかった。ごめんな、ごめんな。もう一緒に走れないのだなと感傷的になる。雨が強くなる前にコンビニまで最後の買い出しに行っておいてよかった。ほんの少しの距離だけど、ハンドルの感触が残っていた。
 二十三時をすぎても雨足は弱まらない。二階までは来ないだろうが一階をどこまで侵食するだろうか。テレビなど諦めはしたけどあまり浸水しなければ生き延びるだろう。生き延びるに越したことはない。早く雨よ去れ。
 再び一階に降りてみた。膝よりも上まで水が来ていた。スツールが浮いていた。ゴミ箱が流されて、中のゴミがぶちまけられていた。立て掛けてあった絵画が揺れていた。寝室のマットレスは汲水して色が変わっていた。ラグが空飛ぶ絨毯のようにぷかぷか浮いていた。テレビを乗せた台は水に飲まれていた。
 壁にかけた絵画にはまだ余裕があるから大丈夫だろう。絵画も思い入れがあると気付き危なくなったら避難させようと思った。
 裏口から水が入りそうになったときにタオルや毛布でふせごうとしたが全く意味を為さないくらいに溢れた水を眺め、無駄に濡らしたタオルや毛布を明日片付ける手間を想像し疲れてきた。
 胸くらいの高さの窓から外を見てみた。窓の位置は地上から百五十cmほどだろうか。手を伸ばせば触れそうなくらいまで水位がある。ここから入ったら一階が沈むかもしれない。そう思いながら見たトタン塀の向こうもすべて水だった。このあたり一帯が川になってしまった。雨が吹き込むのも気にならず、顔を濡らしながらその光景をじっと眺めた。壮観であり圧巻であった。こんなにも水があふれるのだ。自然の凄さを肌で感じた。
 死を意識することはなかった。生き延びるだろう。猫のためにも死ねない。でも明日からの生活はどうなるのかと思うと恐怖を感じた。
 とりあえず記録はしておかないと、と思い、窓から外を撮影し、一階も撮影した。エアコンの室外機は完全に沈没していた。車の警報音が聞こえハザードランプの明滅が自分のもの以外にもいくつか見えた。
 二階でじりじりと時がすぎるのを待った。窓から空を見上げ、床に座り、猫を撫でた。時計の針が頂上を指すとき、ピタリと雨の音がやんだ。ヘッドホンをつけられたように音がやんだ。
 外を見ると雨はもういない。ごうごうと流れる川の音と車の警報音がこだました。
 二匹の猫を抱き上げ、窓から外を見た。うっすらと月明かりが水の底に写った。
 しばらくは眠れないままにじっと外を見たり少ないバッテリーを気にしながらスマホで情報を収集していた。ここもひどいことになってますよ、と画面に呟いた。
 午前二時をすぎ、もう雨の心配はないなと、明かりの消えた街の頭上に煌めく星を見て思った。泣き叫ぶような警報音もいつの間にか止んでいた。ついに事切れたのか、水位が少しは下がったのか。おつかれさまと呟く。明日の大変になるだろう一日を思い、布団に潜った。


 
 台風一過。よく晴れ、暑さが少し辛いが雨よりはましだ。赤く焼けた庭が見えた。まだ朝の六時前だが、あちこちですでに片付けが始まっている。
 どこから手をつけたらいいのかと思うけども、始めなければ終わらない。まずは何か食べようと残っていたおにぎりを頬張る。
 外に出て庭と道の様子を見たあと、道をふさいだコンテナの移動を近所の人や実家の兄たちやコンテナの会社の人などと協力して移動して道を開いた。しかし、この先の道は片側が崩れていると聞いた。ほどなく通行止めになった。
 そこで一旦家に戻ると、両親も様子を見にきた。近くに住む父の弟のおじさん夫婦に連絡を取り手伝いに来てくれるとのこと。ありがたい。数キロしか離れていないけれども、全く被害はないらしい。それもそうだ。道の向こうとこちらで無事と被災に分かれてるところさえもある。川の向こうとこちらではもっと大きな差がある。
 話を聞くと上流で大きな川が決壊して、それが下流に向かって流れてきたようだ。このへんは山のふもとの平地部分に当たる。だからゆるやかな勾配があり、我が家あたりが一番下になる。最後の行き着く先だ。
 家の周りには、木材も流れ着いていた。トタン塀はひしゃげてるところもあり、奥のほうでは基礎のコンクリート部分から傾いて土が抉れていた。
壊れた塀の間を縫って裏手に出ると、ほんの数十m先に小学校が見える。あっと声が漏れそうになった。学校を囲む金網のネットに多数の木材やゴミが小高い山を作っていた。直径一mほどの太い丸太も見えた。あれが家に直撃したらどうなったのだろうか。考えるだけで恐ろしい。上流の住建会社のものだろう。外に丸出しで置いてあったのを思い出す。台風の影響は何も考えなかったのだろうか。この木材で、いのちを失う人が出たかもしれない。それは自分だったかもしれない。それでも、天災だと責任はないという話だ。恐ろしい話だ。すぐ隣の田んぼには、物入れの木箱やスチール製の靴箱なども見える。空き缶や灯油缶、たくさんのゴミがあった。その先には小学校のプールが見える。周りを目隠しの塀で囲まれている。その塀に藁がたくさんつまっているのが遠目にも見えた。
 小学校のそばまで歩いていき、ネットを間近で見ると藁やゴミがたくさん押し付けられていた。木材やドラム缶。ペットボトルやよくわからないものたち。あらゆるゴミが突き刺さっていた。
 ネットに藁が大量に絡まることで水をせき止めたのだろう。ネットの下部分は傾いたり曲がっている。角のところの道は大きくへこみアスファルトがめくれ上がっている。そしてゴミが山になり道をふさいでいた。グラウンドは泥で覆いつくされている。
 目を閉じ、ゆっくり開く。現実。目に焼き付けろと誰かが言う。
 家に戻ると間もなく保険の代理店の人が朝早くから来てくれた。できるだけ多く出してもらえるようにがんばるからと励ましてくれた。どのあたりまで浸水したかをチェックし、跡の残る扉のところでメジャーで高さを示しながら撮影した。今後のことをよろしく頼んだ。
 さて、と家に入る前に無惨な姿になった車を見る。泥を超えてそばまで寄る。サイドミラーまで沈んでいた跡がついていて、マフラーには藁が絡まっていた。財布を入れたままにしていたので鍵を持ってくる。ワイヤレスは壊れていた。鍵穴に差し込み回すけども反応しない。鍵穴も死んでいた。財布を取り出せないと困る。あとで車を購入した車屋に来てもらって開けてもらおう。ごめんと心で謝りボンネットを触った。
 家に入り二階にあがり、ドアを薄く開けると外に出たがる猫を押し戻し部屋に入った。じっと見てくる目に、ごめんな我慢してなと言った。お腹すいただろうと皿に餌を出すとすぐに食いついた。自分もパンを口にした。さっきも食べたが、これからを思うと食べておいた方がいい。それにお腹はまだすいていた。こんなときでもおなかがすくことに、生きていると思った。長い一日の始まりだと思うとため息が漏れた。猫が満足そうに毛づくろいを始めた。そっと背中をなでる。温もりが沁みた。
 口を動かしながらスマホでネットを見ると長野と関東、東北を中心にかなりの被害があるようだが、詳細はわからなかった。自分の県もかなりの被害があるのだろうか。電気は昨夜から死んでいるのでテレビを見ることはできない。
 少しだけ休んで猫におとなしくしてなと声をかけて階下に行く。とりあえずだめになった物を出して泥をかきださないとなと思っているとおじさん夫婦が水拭き用と水切り用のモップを持参して来てくれた。まだ八時をすぎたところで朝早くからありがたい。
「いやー凄いことになったね」と部屋を見ておじさんは言った。「どこから手をつけていいかわからなくなるね」
 そうですねと言って苦笑いを交わした。まずは物を外に出しましょうと言って、タオルや毛布、マットレス、座布団などをどんどん出していく。それからタンスやテーブルなどをおじさんと一緒に出していく。水を吸ったものは重くて、少し臭かった。ゴミと化した姿が悲しかった。
 リビングと寝室のものを重い物を残して出した。そこからはモップで地道に泥を外にかきだしていく。道具があまりないのでおじさん夫婦に泥出しを頼み、自分は外に出した物を運んでいきやすいように整理する。基本はみんな捨てることになるけども、捨てずにとっておくものがないかも調べた。保険などのために忘れずに写真を撮った。
 蛇口をひねると水が出た。エコキュートのタンクに残っているからだろうか。お湯も出た。そして外の水道は地下水なので思い切り使えたのは幸いだった。ポンプは無事のようだ。他の家は水道が使えなくて掃除にしても衛生面にしても大変そうだった。
 コンテナが流された会社にローダーやフォークリフトがあり、庭や道などの泥や砂利を集めて運んでくれることになった。こういうものがあると何倍も早くできるのでとても助かる。自分のところだけでなく近所を順番にやってくれるようだ。持ちつ持たれつ。感謝。
 ボランティアに行った倉敷を思い出す。自分の行った場所は住宅街でもあり、道も狭い。重機が入っての作業はほぼできないため、人の手がいくらでもほしかった。泥をスコップで掬って一輪車にのせて運ぶ。何往復すれば終わるのだろうと果てしなく感じた。
 その何十倍のことをしてしまう重機が使える場所なのは運が良かった。
 実家の道向かいにある空き地を災害ゴミの仮置き場に所有者が提供してくれた。被災すると家財などたくさんの破棄する物が出てきてそれを外に出すが、置き場所に困り片付けが進まないことがあるが、広い場所を早々に確保できたこともついていた。
 フォークリフトを借りることもできたのでパレットにダメになった家具、家電などをのせて何回も往復してどんどん物を片付けていった。災害ゴミ置き場が遠いと軽トラなどで運ぶようになるし、運ぶ人の渋滞で時間もかなりかかる。倉敷では一往復するのに一時間ほどかかったのを思い出す。同じようにやっていたら何倍も時間がかかっただろう。
 不幸中の幸運を思いながら災害ゴミの仮置き場に持っていくと「よう」と声をかけられた。
「おお、帰ってたのか」
 近所に実家のある幼なじみだった。社会人になってからは住む場所も違いほとんど顔を合わせることもなかった。今はドイツに住んでいると聞いていた。結婚もして子供もいるらしい。帰省中だったのか。
「大当たりだよ」彼は苦笑いした。
「災難だけど、でもこっちにいるときでよかったじゃん」
「まぁそうだな手伝えるからな」
「災害知ってもドイツで気を揉むよりは、と思わないとね」
 傍らで彼の父親が災害でだめになった物を投げていた。
「しかし避難所は考えないとな。このへんの避難所全部川のそばでだめじゃん。俺は川向こうの避難所行ったからよかったよ。こっちだと避難所で浸水したかも。あれじゃ死人出るよ」彼の家は平屋なので庭が足首くらいの水位になったときに避難を決めたらしい。
 避難所はどこにしたら安全なんだろうか。小学校は建物は丈夫だが浸水した。それでも二階はあるからまだいいのだろうか。ゴルフ場も避難所指定になってるらしいが、門は空いてなかった。それに土砂崩れがあったとも聞く。ハザードマップの見直しと避難所の設置は行政の課題だろう。
 ほどほどにがんばろぜと言って分かれた。
 異国で体験する恐怖はどれほどだろうと彼の妻と子に少し思いを馳せた。
 そうやってひたすら手を動かしていると、ご飯を持って父の妹がやってきた。気付くと太陽がずいぶん高いところにいた。車で一時間以上かかるところから、おにぎりやパン、飲み物をたくさん持って夫婦で来てくれて手伝ってくれるとのこと。
 親戚の多さがありがたいと感じた。そして、普段それほど交流はなくてもこういうときに助け合えるのは尊いなと思った。
 ほどなく母方のおじさんおばさんも来てくれて、手分けして泥をモップでかきだし、床が見えたところは雑巾でさらに泥を取り除く。手が増えたこともあって、あの途方に暮れた泥たちがどんどん消えていった。
 明けない夜はない、とはよく言われることだがどこかそんな言葉の薄っぺらさを嗤っていたが、本当に明けない夜はないのだと、夕方、床の木の色が見えたときに強く思った。
 クローゼットやトイレ、風呂などはまだ手付かずだったけども、明らかな進展に明日を想像できた。昼下がりには電気も復活したので、高圧洗浄機を使って窓やドアを洗い流す作業もできるようになった。水が溜まってしまう土地でもないのも良かった。場所によっては夜が明けても水が引かず何もできないところもある。
 日が落ちあたりが藍色に染まり出したところで親戚には帰ったもらった。有難うございます。心から言った。有り難い。当たり前にできることではないのに、当たり前のようにする人ってのは今の世の中、本当に有り難いのだ。
 明日も来るよとみんなが言ってくれた。仕事も休み取ったからと言ってくれた人もいた。こんな自分なんかのために申し訳ないと思いながらも嬉しくて泣きそうになった。
 みんなが帰ってからも雑巾で拭いていった。拭いてキレイになったように見えても乾くと白くなる。泥はしつこく居座り続けた。フローリングの隙間に入り込み、四隅にこびりつく。窓は何度拭いただろうか。雑巾を何度も何度も絞った手が少し痛んだ。どこかでぶつけた傷がしみた。爪と皮膚の間も痛む。指にタオルを巻き付けて壁際やサッシ、狭いところを拭いたためだ。夢中でやってるときはよかったが一息つくとしんしんとしみた。
 泥だけでなく下水なども流されるので菌など衛生面にも注意しないとと言われるけどもマスクや手袋をついつい蔑ろにしてしまった。せめて傷には気を付けようと思った。
 ほどよいところでやめた。猫のように伸びをするとあちこちがきしんだ。
 風呂は使えない。エコキュートの室外機には藁がどっさりと刺さっていた。まったく動く気配はない。水道から出るお湯も夜には水になっていた。
 でも実家は床下で済んだため風呂もトイレも生きていた。助かったと思い、熱い風呂をありがたくもらう。カップラーメンで胃袋を温めて、猫のいる部屋に帰るとスマホを充電した。階下に降りて浸水はしなかったテレビを繋いでみたら生きていた。全容はわからないけども、長野で千曲川が決壊して甚大な被害があるとやっていた。長野もまた予報ではそれほど警戒されていなかった気がする。東北にも被害があったようだ。震災からまだ八年。政府にもニュースにも忘れられているが復興にはまだかかる。その最中に追い打ちをかけるかのようだ。
 千葉は十五号の被害が甚大で、それこそ追い打ちになると想像されたが、想像ほどの被害がなかったのは幸いだ。しかし、十五号の傷が消えるわけではない。むしろ、この十九号で蔑ろになってしまわないといいのだがと心配する。
 政府の動きは千葉のときよりは早いが、それでもやはり遅い。首相はラグビーに熱狂していた。見たいものしか見ないのだ。
 LINEのグループに被災したと発言した。一人だけ心配の返信をくれた。ほかは沈黙。そんなものだよな。特に期待はなかった。ためしたかったのかもしれない。どう反応するのだろうか。
 自分は誰かが被災しそうだと心配してしまう。過敏なのかもしれない。
 台風の日も夕方は神奈川の相模川が氾濫しそうと言っていたので神奈川の先輩とLINEをしていた。大丈夫だと言ってたので安心をしていた数時間後に自分が被災するのだからなんともしまらない。
 東日本大震災のときも熊本の震災でもそこに住む人には連絡を取った。大きな被害ではなくてもやはり被災していた。そして放射能から逃げて避難していた人とは会って米と水を渡すことができた。その経験もあるので連絡するのは大切だと思うし過剰に見えるかもしれないが心配をし、連絡をしてしまう。熊本にはすぐには行けなかったが少し遅れてだが訪ねた。何かできることがあるかもしれない。そう思うと早くに情報を得たいとも思う。杞憂に終わればそれがなによりだ。連絡すると邪魔になるかもとよく人は言う。それもあるだろう。それでも、と思う。
 困ったときには助けを。誇ることではない。慈善でも偽善でもなく、自然だと思う。
 でもそんなことはない人も多いのだ。親戚や近所が当たり前のようにすることを、長い付き合いがあろうとできない人が身近に当たり前にいた。そうじゃないかと思えるような人たちなので、やっぱりなとも思った。
 かつて住んでいた水戸も大変だと知った。LINEグループのメンバーとはそこで知り合った者たちだ。水戸も大変そうですと発言した。これにも反応はなかった。
「いろいろ大変な中だけど、これだけは言わせてくれ」ある一人が発言した。
「俺はラグビーは特に好きでもないが今回の活躍にすごく感動した」みたいなことを長文で語った。
 四年に一度のお祭りにこの国は沸いていた。にわかファンが多いがそれでも盛り上がるのはいいことだ。でもタイミングが悪いなと思った。こっちの災害は何年に一度だろうか。お祭りよりも関心が持てないものだろうか。
 そっとLINEのグループを抜けた。
 首相のラグビーの言動を非難する声はけっこうある。しかし、首相と同じマインドの人もかなりいるのだ。楽しむなとは言わない。しかし、時と場所は選ぶのがいいのではないかと思う。正直スポーツを見る気にはならない。スポーツ選手もよく言う。僕たちのプレイで元気になってほしい。
 ならねーよ。その発言なんなんだろうなぁ。 
 同情するなら金をくれ。名言だよなとしみじみ思う。でも同情だってないよりはあったほうがいい。無視ほど辛いものはない。
 ええ、偽善売名ですよ。一億三千万人で売名をしましょう!と言ったのは杉良太郎。流石のお言葉。
 人は嫌な話は聞きたくないと耳をふさぐ。見たくないと目を閉じる。楽しいことだけで過ごせるならそれでもいいし、それがいいのだけど。実際は順番待ちなだけなんだよ。
 自分がLINEでそれほど傷付かないのはすでにずっと前から諦めていたからだ。期待なんてないから、むしろホッとした。ここですごい心配され、手伝いに来られたらどんな顔をしていいのかわからなかっただろう。
 いや、もしかしたら傷ついてるのだろうか。ただの強がりだろうか。自分の弱さを感じた。自分の来し方の答えがこういったときに出るのかもしれない。知りたくない現実をたたきつけられる。
 しかし、こう思う。
 彼らが被災しても心配する必要がないのだ、と。そう思う自分の矮小さに気付かされ、深く傷ついた。
 でも、こうも思う。
 今回、心配してくれた人のことは忘れない。手伝いに来てくれた人も。ないほうがいいが、もしその人たちが被災したら必ず声をかけよう。手伝いに行こう。
 声は勇気をくれた。ひとりではないのだと思わせてくれた。普段話さない人が声をかけてくれた。とても嬉しかった。大切な物はそれほどないけど、大切な者は確かにある。
 大切なものに気付けたのだから、被災しても、悪いことばかりではない。と思いたい。

『音楽があなたの側にありますように』
 寝る前に好きなアーティストのそんな呟きを見た。
 スポーツもバラエティもいらないけども、音楽はやさしく抱きしめてくれる気がした。スマホで久しぶりに音楽を聴いた。昨日は停電してたので聴けなかったしそんな余裕もなかった。

 ♪傷ついたときは そっと包み込んでくれたらうれしい
  ♪転んで立てないときは 少しの勇気をください
 
  ♪生まれ変わって明日を きっと照らしてくれる

 そんな歌詞が沁みた。
 明日も頑張ろうと布団にもぐった。猫が乗って来た。
 世界が一変しますとは示唆的だなと思った。
 見える風景が変わった。そして。
 そして、自分の周りの人間関係というせかいも一変した。

 三日みっちり泥かきに、水拭きをして、災害ゴミを出した。初日には、きりがないと思い先が見えなかったが、気付くとけっこう綺麗になっていた。こざっぱりとして、リフォーム終わりたてなような錯覚をして、どんな家具を置こうかなどと想像した。しかし、無い袖は振れない。買えない現実。
 猫は二階にずっと閉じ込めたままだ。かわいそうだけど、しばし我慢しておくれ。階下では日々たくさん人がいるので、興味と怖さが入り交じっているかもしれない。上の子は興味がまさるので窓から外を見て、隙あらばドアの開閉時に出ようとする。下の子は自分以外の人が来ると雲隠れする。知らないと我が家には一匹しかいないと思うだろう。一度も出てこないままもよくある。そんな子には、部屋の外とは言え、知らない人がたくさんいるのは恐怖なのかもしれない。毎日布団の中に暑くても潜り込んでずっと寝ていた。ごめんなと帰ってからはよく撫でてあげた。
 それでも一部屋にみんなでずっといるのは初めてのことでもあり、なかなかに楽しいものだった。部活の合宿の夜のようなワイワイやりながら普段と違う環境の、あの感じ。いつもは仲が悪く一緒にあまりいない猫たちが一日ずっと一緒なのはストレスかもしれない。猫は独りの時間を愛する生き物だ。それは少し心配だった。それでも不安もあるのか、いつもより寄り添っている時がたびたびあった。
 三日目には没交渉のいとこが手伝いに来てくれた。久しぶりの言葉もないままに自然と泥だしや重い荷物の移動などをやってくれた。
「テレビとかは避難させたの?」
「いや」
「何を避難させたの?」
「猫の餌や着る物とかを」
「それか。そういうもんなのかな」
「そういうもん。すぐにないと困る物くらいで。着る物とか困るし」
 そんなふうにちょっとした会話を手を動かしながらしていると、小学生くらいまでは正月やお盆に親戚の家にみんなが集合し、いとこも何人もいてよく遊んだことを思い出す。
 大変な作業にも徐々に慣れ、会話も増え、見通しが立ってきた。
 車をレッカー移動してもらうために水没した車を泥に埋まったところから数人で引っ張り出した。車屋さんにも来てもらい鍵を開けてもらった。中から財布を取り出す。他にも必要なものと捨てる物とを分けていった。
 中にライブチケットがあったのを見つけて思い出した。チケットを持って行くのを忘れたことが一度あったので忘れないように車に入れておいたのだ。水に濡れてはいるが泥で汚れるとかはないので乾かせば大丈夫だろう。一ヶ月以上先の日程なのでその頃には行く余裕もあるだろうか。あるようにしよう。
 お守りを外してポケットに入れた。
 それから泥で汚れた車を高圧洗浄機で洗った。ごめんな、とまた思った。そしてお別れを強く意識した。マフラーには藁が絡まっていた。それを取り除き、水の入り込んだライトを見た。落ちない泥の跡をそっと指で擦る。
 日常はあっという間に壊れる。
 最後にハンドルに触れた。ありがとう。
 みんなの助けとがんばりがあったので三日間でそれなりに綺麗になったので晴れて猫さま、夜は一階へ。いままであったものがすっかりなくなり、少し戸惑いながら探索をする猫たちを見つめて肩の力が少し抜けた。なんだかんだ気を張ってやっていたことに気付く。猫はソファーや椅子や机にいつも飛び乗るのだが、なんもない。和室は底板がないので封鎖してあるから入れない。閉じられた部屋には入りたくなるのが猫だ。かりかり、かりかりと爪をたてる。行けないのだよと言っても通じない。その姿が切なく感じた。それでも狭い空間から解放されて少し嬉しそうにも見えた。
 ただキャットタワーも円筒形の巨大爪研ぎもなくなった。高低差のない家は猫には退屈そうだ。キャットタワーくらい買わないとなと思いながらも、先に生活用品などを買わなくてはと後回しになる。しばし待たれよと頭を撫でた。
 SNSである人から必要なものはないですか?と聞かれた。それ以前にも先輩とかに聞かれたが、そんなに必要なものはないのと親戚が持ってきてくれたり自分で買えるのでとりあえずは大丈夫ですと断っていた。よく考えればなんかあるのだろうがよく考えないとわからないものはすぐに必要なものではない。それに高いものを必要とも言えない。車とか洗濯機とかエアコンとか。
 それでもそのときは、猫さまのストレスが気になってキャットタワーとか爪研ぎが必要なくらいですねと軽い気持ちで答えた。落ち着いたら買える金額でもある。そんなやりとりも忘れはしないが特別なこととも思わずにいた。
 久しぶりに一階の寝室で寝た。二階も我が家ではあるけど、それでも我が家に帰ってきた感が強くて苦笑いした。心配した臭いも気になるようなものはなかった。隣近所の人は下水臭くてマスクをして寝ていると聞いていた。お風呂もトイレも下水が逆流することはなかった。それはほんの少し運がよかっただけなのかもしれないが、とてもありがたいことでもあった。
 臭いや下水で思い出すのは、浸水してトイレが使えなくなったときのことだ。どうしようかと思ったが、災害が増えてることもあり、携帯トイレを用意しておいたのが幸いだった。最悪バケツにするか、思い切って汚水まみれなのだからそのへんでしてもいいかとも考えた。猫用のトイレの砂にしてしまうのもありかなどと考えたところで、そう言えばと思い出したのだ。用意とは大切であり、過去の自分に感謝した。
 用意していない家ではどうしたのだろうかと考え、さっき考えた最悪の考えを行動に移した家もあるかもしれないと思った。人間の尊厳を失ったと人によっては思うかもしれない。災害とは、物理的にもそうだが、精神的にも削り取っていく。
 次の日、その人からメッセージが届いた。驚いた。普段からたくさん話すわけでもなく、知り合って一年ほどでしかないし、一緒に食事をするとかお茶をするとかもない人だ。
「キャットタワーくらい送ってやるわ」笑い顔が文字の向こうに見えた。
 ま、まじですか?
「マジですよ」慈しみを感じた。
 ということで住所とか教えてと言われた。でも自分で買えるものをねだってもいいのかなと迷った。でも。
 でもいいんだ。
 こういうときはねだってもいいんだ。そう思うことにした。借りを作ろう。作りたくない人ならばなんとでも言って断るけれども、借りを作ってもいいと思える人なので素直にお気持ちちょうだいします。
『遠慮と泥棒はしちゃいけない』
 ふと中学生の時の同級生の母親の言葉を思い出した。
 遠慮と泥棒は同じくらい悪いことなんだと驚き、でもなんとなく納得した。それからは遠慮をあまりしなくなった。その分お礼を言うように心がけた。誰かが遠慮しようとすると、その魔法のような言葉を言った。安心したように遠慮しなくなる人を見てきた。
 縁ができましたねと勝手に心で思い、なにかあったときには倍返ししますねとは文字で返した。いつか恩は返します。そう決めてからは普段やりとりしていないその人とメールをするのが楽しく栄養源のようにもなった。そして自分も誰かが困ったときには手を差し出そうと強く思わせてくれた。
 そんなこんながありながら、家がある程度きれいになったので、通行止めになっている向こうが気になり歩きで行ってみた。川の下流にあたるところだ。通行止めの看板の横を通り抜けていく。
 川沿いの道を歩いていくと、途中の山と川に挟まれた道路だけの部分の片側が完全に崩れて、水道管などの管が切れて剥き出しになっていた。まるで巨大生物にがぶりと噛み付きこそぎ取られたようだ。水の削り取る力の凄まじさを見た。その少し先の道路はアスファルトがめくれてしまったのだろう。砂利で道が舗装されていた。傍らにアスファルトの残骸があった。
 自分のあたりよりは被害が少ないとは聞いてはいたが、それでも床上浸水したらしき家があり、プレハブ小屋がへしゃげてもいた。
 道には土砂や藁が盛り上がって置かれ、ボランティア用のゴミ袋や土嚢袋があちこちに山になっていた。そして、自分んちにも流れてきていた木材がこっちにまで来ていた。木材の流れたところからは三キロはある。お行儀よく道を進んだのだろうかと思うと悲壮感が少し和らぐ気がしたが、現実は何も変わらない。
 道路の汚れがなくなるあたりで左折して、ぐるりと廻って帰ろうと思った。そうだ、この先には先輩の花のビニールハウスがある。被害があるらしいとは聞いていた。見てみようと足を早めた。ハウスが見えてくると数人の人影があった。先輩もいるかもしれないと思いながら近づくと果たして見知った顔があった。向こうも気付き、声をかけてきた。
「おう、どうした?大変そうじゃん。片づけは進んでるの?」
「ある程度綺麗になってひと段落でこっちを見に来てみました」
 ほかにいた数人は農協関係の人で様子見と保険の話をしていたようだ。車に乗り込み去っていくのを眺めながら、先輩のとこはどうですか?と訊いた。
「だめだね」と頭を振る。花を育てて出荷しているのだが全滅のようだ。ハウス周りの備品もあちこち流されたと言った。藁がすごくて、自分のとこ以外のもけっこう取ってやったけどまだまだ残ってるなと苦笑いする。やっかいですよね。時期も悪いよなぁ。すっと缶コーヒーを差し出してきた。
 もらった缶コーヒーを一口飲むと、そのへん見に行かないかと軽トラの助手席をすすめられた。首肯して乗り込み軽快に走り出す。そういえば。
 軽トラといえばこんなことあったな、と思い出す。まだ十代の頃にこの先輩の助手席でドリフト初体験したことを。あのときも軽トラだった。近くのゴルフ場がある小高い山の曲がりくねった坂道をすごい勢いでドリフトしまくった。慣れていてよくやっているらしく一度体験したいと乗せてもらったのだ。危険性を考慮してドリフトするカーブとしないカーブがあるのだが、しないカーブでしてしまい、「あ、悪い」と言った先輩の声が蘇った。あの時が初めて死を間近にした初めてかもしれない。
 ドリフトはしないけれども、深い泥が残る道も四駆の軽トラでバリバリ走っていく。時折横滑りしてもどこふく風だ。川の氾濫した場所や削られた土手、めくれあがったアスファルトを見て回る。このへんも傷痕が生々しい。
 これだけの被害になったのはもちろん初めてだが、生まれてから見た最大の豪雨被害でさえ、川を氾濫して道に砂利が数十m飛び散った程度だった。小屋がへしゃげることも倒れることもなく、車が水没したこともなかった。年々、徐々に大きな災害が来るなら対応が間に合ったかもしれない。予想外なんて頭の悪い言い訳だが本当にそうだった。それに風対策ばかりしてたことが悔やまれる。
 落ち着いたら飲もうぜと言われて先輩とわかれた。
 崩れた道を歩いてまた戻る。陽が山に沈む。道には無人のショベルカー。この世の果てに来たような感覚になった。道には当たり前に誰もいない。虫の声もない。
 不意に道に寝転がってみた。
 アスファルトに耳をつけた。ごうごうとうなるような音がした。水の音か空耳か、それとも。
 それとも、文明が崩れる音か。
 大の字になり空を見た。秋空に雲が揺蕩う。このまま寝てしまいたいなぁと目をつぶる。一瞬未来へワープする。どこからか音が聞こえた。目をうっすら開けるとヘリコプターが小さく見えた。むくりと上体を起こし、おれはここにいるぞ、と手を振った。戦争で取り残された兵士のように。ヘリコプターはそんなことにも気付かずに山のほうに去っていった。よく見ていってくれ。壊れたまちを。おれのまちを。
 立ち上がりおしりの埃を叩く。ついでに重くなった腰も叩く。やれやれ、と伸びをする。さらに体を左右に旋回する。後ろを見ると散歩する犬がいた。ワン。一声鳴いた。日常が帰ってきた気がした。
 さぁまた廊下でも拭きますかと重いながらスキップしてみた。少し心が軽くなった。
 キャットタワーが届くまでには、元通りには絶対にならないけど、新しい日常を始められるようにしよう。
 新しい日常の始まりにキャットタワーを組み立てよう。

 土曜日に台風が来て、日曜から掃除や片付けを始めて金曜までみっちりと動いた。掃除と片付けの合間には、被災者相談窓口に、り災証明を出してもらいにも行った。初めての経験ばかりで目まぐるしく時は流れていく。窓口場所の隣の建物にはボランティアセンターができていた。何人かそれらしい人がいて駐車場には他県ナンバーの車が止まっていた。感謝。
 金曜日には家もそれなりになったので実家の物置小屋や会社の片づけも手伝った。会社のほうは本当に被害も大きく、片付けも時間がかかるだろう。長期戦になるので、土日は休んで来週からは通常業務も再開となる。合間に片付けをしていくしかない。否が応にも日常は襲ってくる。なにより働かなくては食えないし、修復もできない。
 来てくれていた親戚の人などにももう一度お礼を言った。おかげで一週間で、ボランティアに来てもらうこともなく片付きました。ありがとうございました。
 しかし、周りには老夫婦だけの家もあり遅々として進まない。庭のだめになった植木や藁の始末は自分たちも数人で行って手伝ったが、家の中の処分などは二人だけでいるものいらないものと判別しながらでもあるのであまり手伝えない。
 報道の少ない場所であったからボランティアの集まりも悪いが、日に日に増えてきてはいるようだ。それでもボランティアに頼めることと頼めないことがあり、泥出しや荷物の搬出は手数がほしいけども、選別しながらの作業やあまりプライベートな空間には入れたくないというのもある。
 近くの小学校は自衛隊が来て校庭の泥を大きなブルドーザーやショベルカーで集めダンプで仮置き場に運んでくれてそれなりに片付いたが、変電設備が水没したため開校できない。中学校の空き部屋を借りての授業再開となるようだ。卒業式までにはどうにかしてほしいと願う。
 被災して初めての休み。土曜日はたっぷり寝て疲れをいやした。腕が痛い。あちこち拭くという動きは普段しないので手首や指などに響いた。屈んでもいるので腰も重い。マッサージに行きもみほぐしてもらう。
 台風大丈夫でしたか?と聞かれて床上浸水しちゃいました、と明るく答える。それはすいませんでした。軽々しく聞いちゃいけませんでしたねと神妙になるマッサージ師。いえいえ、気軽に聞いてください。聞かなきゃわからないじゃないですか。聞かずにきっと無事だろうと思ってるよりも聞いて事実を知ればいいのですよ。それで何かをしてもしなくてもいいけども、知らないと何もできないですよ。
 他にも聞かれて被災したと答えると、聞いちゃいけないことを聞いてごめんなさいという感じで謝る人がいるが、聞かなきゃ始まらない、と思う。
 いまは嫌な話は聞きたくないと耳をふさぎ、目を閉じる人が多い。知らなきゃ知らなかったで押し通せると思ってるのかもしれない。でもそれでいいのかな、と疑問に思う。被災したからではなく、被災する前から天災や大きな事故があればメールなどで近くに住む知人には聞いていた。知らなかったと言って済ませたくない。連絡も取れない人ならしかたがないが、連絡が取れるなら聞いた方が早い。無事ならなにより、もし何かあれば何かできることがあるかもしれない。それでいいと思う。知ろうという気持ちは大切だと思っている。だから、聞いてくれる人はありがたい。現状を知ることで、そういえばあの人ももしかしたらと思い連絡取ってみると言った人もいた。その人とは連絡は取れただろうか。
 この話が役に立つのかはわからない。それでも情報のひとつにはなるだろうと思うので聞かれれば答えるし、SNSにも性懲りもなくあげている。
 自分にとっては記録になるし整理にもなる。
 聞いていいのかなと迷うくらいなら聞け。連絡しろと思う。連絡しないいいわけを探すよりも本人に聞くのが早いし、本人も嬉しいと思う。忙しいかもしれない。返事がないかもしれない。邪魔になるかもしれない。
 かもしれない、は自分への免罪符になるのだろうか。忙しければ返事はないかもしれない。メールなど見られないかもしれない。それでも、ふと落ち着いた時に連絡があったのを知るのは嬉しいのだと思ってほしい。心配するのは誰のため? それが伝われば迷惑になんてならない。
 実際何日経っても、それなりに会ったり話したりしてる人でも一切連絡のない人はいる。逆にそこまで普段連絡していなくても、災害などの時には必ず連絡をくれる人もいる。その差はどこからくるのだろう。被災して初めてわかる彼らの人間性を知った。なんだかおもしろいなあ。人は普段は仮面をかぶっていて、有事にこそ本性がむき出しになるのかもしれない。
 その知ってしまった人間性に励まされるし救われると共に傷つき悲しくもなる。偽りの関係性だったのかと思ってしまう自分が嫌いにもなる。
 被災して壊れるのは家とかよりも人間関係なのかもしれないな、と思う。放射能の時にもあったけども被害者同士で罵り合っていた。矛先が違うよと思ったものだけど、近くで被災してみるとそういったうわさがもっと大きな声で聞こえてしまう。
 大量の木材が流されたが、その会社を悪しざまに言う人がけっこういると聞くようになった。確かに管理の杜撰さはあっただろう。台風が来るとわかっていたのにもう少しなにかできなかったのかと。それはそうだが、お互いに被災して苦しい時に言わなくてもとも思う。
 そしてそういう人たちもマットや植木をしまわずにあちこちに拡散しているのも事実なのだ。他者に当たらないとやっていられないという状態に精神がなるのかもしれない。でも誰かを貶めても救われないのだ。八つ当たりして発散しても、きっとあとでむなしくなるのではないか。
 けれども、そうなる気持ちもわかってしまう。
 なにかできることがあれば言ってとメッセージが来たけど、結局なにもしてくれないのだ。昔から付き合いがあり親しいのだから本音で言ったのだと思いたいけども、来てくれると嬉しいね、なんて返すとスルーされる。時間を使う気はない。心配のポーズがしたいだけの台詞はいらない。
『役に立てなくてすいません』
 役に立つ気がないです。と言われてる気がしてむなしくなる。すいませんが、時間を使う気がありません。と言われてる気がして心がささくれだつ。
 自分の弱さが、言葉のひとつひとつに反応する。制御できない感情に戸惑うこともある。
 そういうのが続くと、結局なんもする気なんかないんだろうと返してしまう。そしてそのあと言い過ぎたなと思い、逆にごめんと謝ってしまう自分もいやだった。精神錯乱してしまっているようで恥ずかしくなる。それでも何か返してくれるなら救われるが無視されるので本当になんの心配なのだろうとやはりもやもやとしてしまい、幻滅していく、自分にも相手にも。こんな思いを抱いてしまうのだからやむを得ない天災だけどやるせない。
 病床で頑固じじいが看病やお見舞いに来てくれる家族に八つ当たりをしてしまう心理が少しだけわかってしまう。
 心がむき出しになってしまうんだ。
 感情が敏感になる。
 ちょっとしたことでも嬉しく感じるし、ちょっとしたことでも傷つく。こんなにも感受性豊かだったのだろうかと、嬉しくても悲しくてもすぐに目が潤んでしまう。
 こんな自分がいたのだとびっくりしながらもどこか楽しくどこか悲しい。この感情に名前はないけども、忘れてはいけないなと思う。きっといつか身近な誰かが同じ目に合う可能性は高いだろう。その時に、この経験が生きるはずだ。生かさねば。
 時間を誰かのために使うのは本当にすごいことだ。仕事や普段の生活がある中で、忙しくても誰かのために時間を作り使うというのは、お金なんかよりはるかに価値があると思う。自分のことよりも優先してくれるのだから。だから時間を使ってくれる人は尊敬するし信頼できる。受けたものは返していく。何ができるだろうか。
 募金よりも現地に直接行ってボランティアすることが尊いなと思うのはそういうとこなのだ。お金ももちろん復興には大切なんだけも、そこに体温をあまり感じなくて、直接顔が見えるのは温かい。
 生きていていいんだ。自分の存在に気付いてくれているんだと感じる。だから声をかけるのは大切で、簡単にできるんだけど、本当に大切だなと思う。これは被災したときだけでなく、人の営みにおいてすごく大切だと思う。いじめられているときに声をかけたら変わるかもしれない。自殺しそうな人に声を変えたら思い止まるかもしれない。そんなことをふと思う。
 体を動かし片付けに必死な時は夜はすぐに寝てしまうし余計なことはあまり考えなかったし、しないようにも無意識にしていた。でも時間ができれば人の想いに過敏になってしまい、思考が深みにはまっていくのを痛感する。
 嘆いてもしかたない。感情をうまくコントロールできない。諦めて感情の暴走も沈静も受け入れてこんなことを思うのかとどこか傍観者になる。
 いや本当に、人生ってなにが起きるかわからない。
 だから辛いし、だから面白い。面白いと思えるうちは大丈夫。
 僕は元気です。たぶん。
 そんなこんなと思考が巡りながらも、まちの変貌も目に焼き付けようと、日曜日には歩いて決壊した土手まで行った。
 まだ見ていなかった裏道のほうから向かうと途中にある家々も浸水したのだろう、災害ゴミが道に出されている。決壊した上流方向に歩いていくにつれ大きな被害が現れてくる。
 家の下の地面が削ぎ取られ、管などが見えている。もう少し削られたら傾いていただろう。家の一部は宙に浮いている。生きた心地がしなかったのでないか。地面が抉られることもなかった我が家との差にほんの百mの差がとてつもないものに思えた。側溝脇の家だから水が落ち、その落差の勢いで地面を削るのだろうかなどと考えた。
 そこから見える家に同級生の実家があった。聞くところによると二階に逃げていて水に飲まれる心配はないと思っていたら、件の木材が家にぶつかる音を聞きながら夜を過ごしたらしい。ああ、死んだと思ったようだ。木材で家を貫かれて倒壊したら水深一m以上の濁流に電気のない夜空のもと投げ出されてはなにもできずに沈みそうだ。そうならなくてよかったと思う。自分の家にも木材は流れてきたが塀があったので家には直接ぶつからなかった。塀はひしゃげてる場所が複数あったが、その存在に感謝した。
 さらに先に行くと裏道である農道がほとんどなくなっていた。川からの砂利が田んぼに大量に流れ、田んぼの間にある農道もまた崩れていた。電柱はことごとく傾いている。かつての大きな地震を思い出した。まるで怪獣が歩いたあとのようにあちこちが破壊されていた。
 その先には無事な道があったので、右側に見える川からこの方向に水が流れて来たのだなとわかった。
 八岐大蛇とは、大規模な川の氾濫なのではないかという意見を見たことを思い出した。八岐大蛇が陥没させた道に降り、進み、登り先を目指す。八つの首で八つの牙でこの土地をえぐり取ったのだ。被害の大きさを見ると思わず震えそうになった。
 先の道の付近の家には他県ナンバーの車があった。きっと週末になって手伝いに来てくれたのだろう。そこから少しそれた場所の家は浸水しなかったとあとから聞いた。ほんの数十mの差がまさに天国と地獄。しかし、天国なんてあるのだろうか。隣がすごい被害だとのんびりもしていられない。していれば、こんなときにと言われてしまう。
 ふと思い出す。マッサージ師が被災地の会社の人に聞いた話では、その会社は被害がなくすぐに操業したらしいが、周りは被害があったようで、手伝いもせずによく働いていられるねと陰口を言われ、陰でなく直接も言われたようだ。それで、今度一日ボランティアすることになったんですよと苦笑したらしい。
 なんとも言えない複雑な気持ちになった。どっちの立場も苦しい。働かなきゃ暮らしていけない。それこそ会社になれば被災地以外から勤務している人もいるだろう。その人たちの給料はどこからも出ないのだ会社からしか。そう思えば働けるなら働くべきだと思う。けれども。
 けれども、その地域で働けるのは周りの理解があってのことでもあるし、困ったときは助け合うというのもわかる。少しでもいいから手伝いをしていれば感情を逆なでしないで済むのかもしれない。言われる前にやっていれば穏便だったかもしれない。すべてがかもしれないの連続でいやになる。
 こういう問題はどこでも起きる。どうするのが正解なのだろうか。地域と人間関係。水がいろんな建前を攫って行って、醜い本音がさらけ出されていく。
 そして決壊した場所にたどり着く。橋のすぐ近くだ。車で遠目には見たが間近で見ると圧倒的な暴力にたじろぐ。すぐそばの家の車庫は完全に傾いていた。地面が半分削られて四十五度崩れていた。車も落下して、さらに折れた屋根につぶされていた。家をはさんだ反対側も崩れてそこにある車も落ちくぼんだ地面に半ば埋まっていた。それでも家は作りがよかったのだろう。下もコンクリートでしっかり作ってあった。形が崩れることなくそのまま建っている。もちろん中は浸水したので片づけは大変だろう。でも流されなくてよかったと思う。
 しかし、とも思う。保険は全壊なら計算も早いし全額出る。それが半端な床上浸水とかだと保険会社も渋るし計算に時間がかかる。いのちが無事ならそれはとても大切なことだけど、生き残ったからにはその後の生活がある。保険に入っていないと話にもならないが入っているなら、床上浸水よりも全壊のが直すにしてもいいのだろう。ただ全壊だと避難していない場合死んでいる可能性は高い。なんとも悩ましいところだ。
 災害法があるのだが、実際に被災して話を聞くと、全壊はわかりやすいので上限三百万円出ると思われる。でもその金額で立て直せないだろう。半壊はもっとシビアで、り災証明で半壊扱いになっても、家を解体しないとだめだとか厳しい。基礎や柱がまだ使えれば解体などしない。床だって使えるなら使うだろう。ぼこぼこに波打とうとも。国は冷たい。この国の法は国民を助けない。被災してこそ知る現実かもしれない。
 東日本大震災の時に出来た法律だ。もっともらえるのかと思っていた。しかし現実に流された家々の人たちは三百万だけでどうしたのだろうか。保険に入ってればいいが、そうでないと。考えただけで気持ちが闇に落ちそうになる。
 市の人が家を見に来た時に言っていた。
「公務員にもカーストはあるんですよ。我々は上司に逆らえない。市は県に逆らえない。県は国に逆らえないんですよ」
 できることはしたいし、出すものはどんどん出せばいいと思うけど、そんな力はないし、勝手に何かしようとすると、予算が下りなくなったりするんで言われたことを粛々とするしかないのです。歯ぎしりしそうな苦々しい顔で言っていたのが印象に残っている。
 その家を、自分の家を思い、深いため息をついた。
 決壊した場所は突貫工事で土の道ができ、崩れた堤防には大きなフレコンバッグの土嚢で簡易の堤防ができていた。夏の豪雨レベルが来たらすぐに乗り越えそうで不安を覚える。
 その土の道を踏みしめてさらに先へと行く。その先には機械工場があった。道が崩れて陸の孤島になっていた場所だ。道ができたことでやっと復旧のために動き出したようだ。社員が大勢で片づけをしていた。取引先の人らしき影もあった。たくさんの機械が浸水したようだ。最近の機械は水に弱いので復旧の見通しはしばらくたたないだろう。部品供給されていた会社はほかの工場などに仕事を回すから、復旧できたとしていままでのような経営が続けられることはないかもしれない。自分の会社のことも思い未来は絶望色なのだと思った。
 その先には牛舎が見えた。首から下が浸水したという牛たちが遠目に見えた。牛たちの恐怖を思うと震えた。鳴いたのだろうか。啼いたのだろうか。
 その声は飼い主に、周りの住民に届いたのだろうか。
 のちに聞いたら一晩中ないていたようだ。可愛そうだけど家から出られないので何もしてあげられないと言っていた。
 牛舎が壊れて流されなかったのは幸いだ。ほかの地区では流された牛もいるらしい。そして隣の県に、生きて流れ着いた牛もいる。牛の生命力のすごさを知る。人なら確実に死ぬだろう。泳ぎがうまくても。でも、牛は生まれて初めて川に入り泳いだこともないのに生き抜いたのだ。
 牛舎の傍らで同級生が倒壊した建物を機械でひっぱり、たくさんの人が手伝う姿が見えた。同級生の父は議員なので手伝う人も大勢集まるのだろうか。選挙ではボランティアをたくさん募っていたのを思い出した。そして駆り出される知り合いが何人もいた。
 被災後一度も議員が見舞いに出向いた話は聞かない。自分のところが大変だから。それもわかる。わかるけども、釈然としない。心の狭さだろうか。議員とは公僕でもあるはずだ。
 同級生を横目にどんどん進む。浸水した家々と手伝いに集まった人たち。自分は平日でも親戚が手伝いに駆けつけてくれて早くから出来たからそれなりになるのも早かったが、多くの家ではすぐには駆け付けられず一週間たってからの週末に人手をかけられるようになったのかもしれない。
 そしてもう一か所の決壊した場所へとたどり着く。こちらはもっと道がなくなっていて、砂利だらけとなっていた。田畑の土が見えなくなっている。普通のダンプでは通れないのでキャタピラー式のダンプで川岸まで砂や土を運びショベルカーで空いた穴をまずは埋めていた。キャタピラーなので遅い。そしてたったの二台でやっているので一週間たったいまでもまだまだ仮復旧さえもできそうにない。雨予報も出ている。それまでにはせめてと思う。
 土砂や砂利の地面を四苦八苦しながら超えて、壊れていない小道に出て少し歩きメイン道路に出るとなにもなかったようなまちが現れる。コンビニに入り飲み物を買った。ごくごくと飲みながら帰り路に歩を進めた。
 下流方向へ歩いていくと、また道には災害ゴミが増えてくる。この先通行止めの看板を見ながら埃っぽい道を歩く。どこへ向かっているのかわからなくなる。明日なんて考えられなくていま何をして乗り切るか。それだけになってしまいそうになる。それでも明日の来週の来月の何かに向かっていないといまを頑張れないなと思った。
 被災前に予定に入れてあったイベントのことを思う。それまでには外に行く余裕を作ろう。楽しみなことがあれば、今日を生きて明日を思える。もっと予定を入れよう。人に会おう。人と話そう。なんでもいい。被災のことでも、くだらないことでも。話そう。
 家に戻り、雑巾を取り出し床を拭き始めた。汗が出てくるころメールを着信する。開いてみると宅急便のお知らせだ。明日お届けすると。
 近くの宅配所も被災して閉まっている。隣の配達所からくるのだろう。
 被災地にも荷物は届く。
 思えば被災した次の日にも宅急便が実家に来てたのを見た。それはすごいことだよなぁと改めて思った。
 川の向こう側では日常が続き、こちら側では日常が失われ、それでも向こうとこちらは橋で繋がっている。
 そう、繋がっている。
 道の先には優しき隣人がいて、地続きに繋がっているのだ。

 月曜日、何事もなかったように通常通りに仕事をした。そうは言っても二人くらいは片付けに回し一日ひたすらだめになった製品と使える製品との仕分けや整理をしていた。空いた時間にはそれを手伝い、泥をかき集めた。通常業務に余計な仕事が付け加えられた。一息つくはずの時間を片付けに使った。無理がいつかたたるのではないかと年老いた社員を見ると思う。いつまでやれば終わるのか。正直見通しはたたない。それでも通常業務と片づけを平行してやっていくしかないのだ。
 一年に二回くらいしか来ないトラックの運転手が来た。
「なんかすげーね。通行止めになって迂回してきた。埃すごいし、あちこち積みあがってるねいろいろ」顔を合わせるなり少し甲高い声で言った。
「ええ、大変ですがしかたないですね」
「家はどうなの?」
 床上浸水して一週間かけて生活できるくらいには片付いたことや車は一家全員分水没したことなどを話した。
「うーわ。車もか。まじか。いや、まじ大変だな」本当に大変そうに大きな身振りをする。まるで芝居のように天を仰いだりする。なんだか嬉しくなり、話す声が少し大きくなる。
 そういえば。
「そういえば山梨は大丈夫なんですか。アメダスでずっと紫で、山梨こそやばいんじゃないかと夕方くらいにはずっと思ってましたよ」自分ちが被災しちゃいましたが。
 運転手の住むあたりはなんともないと言った。風は強かったし雨も降ったけどねと。高速道が通行止めに一時なったり一部は被害があったようだが。
「避難したの?」
「いえ、二階にいました」
「君んとこの会社全滅なんじゃねとか話してたから心配したけど、よかったよ。まじで全滅で会社ないんじゃないかと思ってたから。まじよかったよ」顔の表情がくるくる変わりながら熱い口調んで言う。
「なんとかやれてます」
「俺にはわかんないくらい大変だろうけど、いのちあっただけでもと思うしかないのかもなぁ」独り言のように漏らす。
「山梨だっていつそうなるかわからないじゃないですか。数年前には雪がすごくて、二mも積もるなんて思わなかったじゃないですか」
「そうだそうだ。どこで何が起きてもおかしくないよな」
 年に二回くらいしか会わないけど会えばよく話す運転手だ。今回話してわかった。強く感じた。リアクションの大きさが饒舌にさせる。合いの手のように驚き質問をしてくれる。災害だから聞いちゃいけないなんて遠慮のかけらもなく、それが心地よかった。
 同情してほしいとか心配してほしいわけではない。
 災害を共有してほしかったのだ、と気付く。話をすることで、相手にも知ってほしいのだ。どんどん聞いてほしいのだ。興味を持ってほしいのだ。
 LINEグループを抜けたのは、無反応で興味を持ってもらえないことへの寂しさだったのだ。こんなに自虐的ネタをぶちこんでも反応がないのは悲しかったのだ。どんどん聞いてほしかった。明日にはみんなの番かもしれない。聞いてくれれば何かの役に立つことがあるかもしれないのに。誰か知り合いが被災してるかもという想像につながるかもしれないのに。経験を共有したかったのだ。それが心を穏やかにさせるのだ。誰かに話を聞いてほしかったのだ。
 心理カウンセラーは基本的に患者の話を聞くだけだという。うまく話せる話せないに関係なく、なんでもいいから話すことで心が軽くなるのだろう。それをすごく感じた。この運転手にこの時期に会えて話せてよかったと思った。心が軽くなったと、確かに感じられた。
 人は物語ることで、辛いことでも幸せなことでも、消化し、次へいけるのだろう。
 だから人は物語り、だから人は物語を読む。そこには自分の気付いていない内なる声があり、それを読んだときに気付き、消化でき、これは私の物語だ、と思えるのだ。そして次へいく糧になる。
 
 夜、待ち焦がれたキャットタワーが届いた。
 嬉しさに天を仰ぎ、少しだけ泣き、猫を抱きしめた。
 優しさが沁みた。
 呑気になる時も大切だな、とキャットタワーで戯れる猫を見て思う。
 猫が大きなあくびをした。
 釣られてあくびをした。

 寝る前に、久しぶりに読みかけの本を開いた。まだまだ大変ではあるけど、自分より大変な人もたくさんいるけども、それでも今日は、今日からはまた本を読もう。物語を読もう。

「ねぇ聞いて聞いて」
 そんな作家の声が聞こえた。



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