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私にとって走るということ

 小学生の頃からずっと走っている。きっかけは小学4〜6年生のときの担任の先生。体育大学を卒業された方で、何かと運動を教えてもらった。その中でも“走ること”は33歳になった今でも続いている。

 よくよく考えてみると、今と昔とでは走ることの位置付けが随分変わってきた。

小学生:走る=競争

 私は特にマラソンが好きで、3年間、毎日、仲良しの友達と校庭を朝7:00から数キロ走った。なぜ走るのが好きだったかというと、同級生の友達よりも走るのが速かったから、ただそれだけだ。先生は独自の練習メニューを作ってくれて、年に数回、マラソン大会に連れて行ってくれた。真剣勝負で勝つのは、たまらなく気持ち良かった。特に目標をもって取り組んでいた訳ではなかったが、子供ながらに真剣に走ることに向き合った。勝負への没入感を覚えたのはこの頃だ。

 小学校の1番の思い出は6年生、最後のマラソン大会で、全く結果が出なかったこと。微熱が続いていたのに、誰にも言わずに無理して前日まで練習して、結局コンディションが整わなかった。終わった後は、すごく落ち込んだ。卒業式の日に母親が先生にそのことを伝えたようで、先生が「体調悪かったんだって。知らなかったよ。よく頑張ったね」と言ってくれた。堪えていた涙が溢れ出た。頑張りを認めてもらえた嬉しさと先生へ別れの寂しさが入り混じった。

中学校〜大学:走る=トレーニング

 中学から大学まではテニス部に入部した。休みの日も暇さえあれば練習していた。小学生の頃のマラソンがきっかけで、勝負事を中途半端にするのが嫌いになっていた。走ることは目的ではなくなり、テニスがうまくなるためのトレーニングというだけの位置付け。小学生の時はあんなに真剣に走っていたのに、正直、走るよりも早くコートでボールを打ちたい想いが強かった。中学、高校と指導者がいなくて弱小チームだったけど、県大会までいけたことは、よく頑張った方だと思う。ただ、真剣さや手を抜きたくない想いをチームメイトにも向けていて、キツく当たっていた。チームのみんなは部活が楽しかったのかなと振り返ると疑問もある。(これは仕事でもそうで、手を抜く人は好きになれないが、あまり自分の価値観を押し付けないように注意している、、、つもりでいる)

社会人:走る=心の整理

 部活を引退してからは、しばらく何も運動をしていなかったが、体を動かしたくなって走ることにした。現役の時と比べると体の衰えを感じたが、無目的的に走ることは気持ちが良いことに気付いた。走っている時はいつも自分に向き合っている。だいたい10キロくらい走るのだが、4キロくらい走ると体が馴染んできて、単調な動きの中で心の声が聴こえてくる。同じことを考え続けることが難しく、色んな内側の想いが頭の中をたくさん通り過ぎる。ふと何かを閃くこともあるし、悲しいこと、楽しいことを思い出すこともある。走った後は頭がスッキリしている。もしかしたら瞑想に近いのかも知れない。今では考え事をしたり、悩み事がある時は意識的に走っている。私にとって自分の内側に集中できる唯一の時間だ。

 取り留めもないことを書いてしまった。書きながら、走ることに色んな思い出が詰まっていることに気づいた。小学校時に出会った先生にはお礼を言いたい。私の中に大事なモノを残してくれてありがとうございました。

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