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僕らは障害者だけど「かわいそう」を求めていない

先日、詩人で全盲noterの羽田光夏さんのこの記事を読んでから、自分の中の深いところで、朽ちた木が燃え始めるように、何かがくすぶっていた。とても難しいことだけれども、それを言語化してみたい。

私は大昔から、ネット上でよく転ぶ。例えば、ちょっと攻撃的なムードの記事や、いろんな悪意のあるコメントに、即座に反応する。精神的にめっちゃ躓く。それは、普通に考えたらやはり精神障害者の特性なのだろう、そう普通のひとは捉えるよね、とも思う。現実の自分が思うには、毒親との接触期間があまりにも長くそして密だったせいで、それで対人感覚におかしな癖がついているだけだ、という風にも感じているけど、それでも健常者として生きていける人たちはいるから、「障害者」と一度、認定されたらそれはやっぱりそうなんだろう。そして、その枠に一旦入れられると、どういう訳か私、いや僕らは人間という枠からはみ出した存在になる。もちろん、「そんなことないよ」と、言う健常者の人はたくさんいると思うし、実際そうは扱わない他人もいることを、私は体感として最近は知っている。でも。

一昨日、新しいクリニックへ行ってきた。先生は、ごく普通の服装をした黒い細縁のめがねを掛けた医師で、そして白衣を着ていなかった。MacとiPadを、テーブルに固定した先生は、たんたんとこちらの病歴と訴えを、画面に打ち込んでゆく。
「ちょっとそれ睡眠薬飲み過ぎたね。」
先生は、私に注意したのはその一点だけで、親が大変ですねこれまで苦労しましたねあなたは頑張ってます、というような余計なことは一言も言わなかった。次の、診察の日取りというか間隔も、私自身に決めさせてくれた。
なんだそれ、普通じゃん?と、精神を病んだことがない人は感じるかもわからない。要するに、この先生は胃が痛みますとか、歯がしくしくしますという患者に対するのと、全く同じように私、そうつまり僕ら障害者に接しているのだった。それで、私は生まれて初めてめっちゃ元気になった。

でもこういう医師は本当に稀なのだ。

僕らはなぜだか、障害者という枠に入れられた瞬間、かわいそうな存在になる。だから、健康(というかそういうふうににまだ、認定されていない)人たちが、どういじってもそれは全然自由だ、という状況に、突然放り込まれるようになる。

もちろん、私は全く助けがないと生きてゆくのが、そもそも難しい。だから、親がいない今は、様々な支援の専門家にフォローされて、それで生活をしている。それを、かわいそうとかズルいとか、あるいは自分の足で立ててないんだから、いくらでもいじったりしていいのだ。と、考えている人たちの方が、まだまだ圧倒的に多いのだ。だから、僕らは余計なお節介、つまりはハラスメントに遭う確率がものすごく高いし、やっかいなことにはお互いでもそれをやってしまったりする。

でもそれはよくない。本当に時代遅れなことだ。

僕らは、何らかのフォロー、つまりは杖を必要としているけど「かわいそう」という目線を、別に必要としていない。
僕らは、いじめやハラスメントに遭っても沈黙する義務を持っていない。
僕らは、健常者の人よりよく間違うし、普通の人の配慮を必要とする存在だけど、だから外へ出ちゃいけないわけじゃない。
僕ら障害者はかわいそうを求めていない。「かわいそう」だ、という理由での忠告や行動は、僕らの障害をかえって助長してそして混乱させる。

僕らは一人の尊厳を持った人間なんだ、ということがもっともっと周知されることを、私は希望している。障害者へのハラスメントの連鎖を、僕たちは止めよう。


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