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名前を呼ばれた気がして

  自分の名前を呼ばれた気がして顔を上げたのは、今夜知り合ったばかりの名前も知らない男にラブホで後ろから突き上げられている時だった。その名前も知らない男は、私が昂っているのだと勘違いして、うなじにベタついた唇を寄せながら甘だるい声をかけてきた。それが薄ら寒くて、名前も知らない男に対してどうでもいい、から、少しの嫌悪を抱くまでになった。
  私の名前を呼んだのは間違いなくアイツだった。
  〈記憶〉をスクロールして削除ボタンを押しても、ゴミ箱の隅にこびりついたものが、容赦なく復元される。アイツの顔はぼんやりとしか思い出せないのに、声だけははっきりと蘇ってくる。私の脳みそは良い仕事をしない。こうして気の向いた時に他の男の上書き保存を試してみても、上手くいかない。
  棺桶の中のアイツの顔には霞がかかっていた。みんなは、穏やかな顔だ、と私を慰めるように同じような言葉をかけてきたけれど、私にはそれを確かめる術がなかった。
アイツの顔が思い出せない。もう思い出す必要も無いけれど。

「ヨウ」
今度私の名前を呼んだのは、後ろから突き上げ続ける名前も知らない男だった。私こいつに自分の名前教えたっけ?こういう近々のことは全く覚えていない。ポンコツすぎる。
  名前も知らない男は勝手に果てた後に、誰のこと考えてたの?と聞いてきた。嫌悪感がさらに増す。今までの男より印象に残るかもしれないと思った。
  どうしよう、あえて名前を聞こうか。
  迷っていると、名前も知らない男は鞄から財布を取り出した。金を払う気なのか。ますます嫌な男だと思った。
ところが、名前も知らない男が財布から取り出したのは、白い布地に鮮やかな鳥と『開運』という二文字の刺繍が施された御守りだった。男はそれを私に差し出した。私は一気に困惑した。
「何これ。どんな反応して欲しいわけ?」
私の本音は声になって出てしまっていた。名前も知らない男は大笑いして、
「ヨウは幸せになるよ」
と言った。

  思い出せないアイツの顔。
もう声も聞こえてこない気がした。
でも私は〈記憶〉をスクロールしてその中のアイツを全部選択してファイルに保存した。そして鍵をかけた。
名前も知らない男が私に侵入してくる前に。

  名前を聞こうか、どうしようか。
御守りを握りしめながら、名前も知らない男の顔を睨みつけるようにじっと見る。
顔を忘れないように。

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