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愛玩の君 ─1─

【あらすじ】
   たちばな 綾香あやかは、姿を消してしまったヨースケくんという忘れられない存在を胸にしまったまま、高校の同窓会で会った名前のわからない男と一夜を共にした。後日、再会した友人から奇妙な話を聞かされる。その夜、不思議な館の夢を見てから、次々に説明のつかない恐怖の出来事が起こる。綾香は過去に起こった〈真実〉を目の当たりにし、名前のわからない男の正体を知る。その男に妄執され、追われる。そして、再び夢で見た館に誘われ……

   どうでもいい男が私の上で「気持ちいい」と息を荒げながら腰を振る。ああ、こんなはずじゃなかったのに、と私の自尊心はしっかり削られて不快ですらあるのに、意に反して喘いでしまう。それでどうでもいい男がますます興奮する様を、下から冷めた目で見ていた。されるがままのおもちゃみたいな気分だった。そのくせに体はきちんと反応するのだから、人間の本能ってすごいな、なんて、まるで他人事のように考えていた。
 自分のケチぶりと酔いに任せた無駄な勢いを嘆いた。それとも私は寂しかったんだろうか。

   高校の同窓会の帰りに、終電を逃したからとベタな展開で同級生の男のアパートに泊まることにした馬鹿な私。タクシー代が惜しかったからだ。私もいい歳しているのだから、もちろんわかってた。酔っ払った独身の男と女が部屋に二人きりとなればどうなるかくらい。十年という年月を経て存在を忘れていたこの男のことは、お酒の席で名前を聞いたはずなのに、今も覚えていないくらいどうでもよかった。思い出の中にもいなかったし、これから思い出となることもない。きっとそのうちにまた忘れる。
 どうでもいい男は私の乳房を揉み、私の唇を吸い、私の中をひたすら突く。ねっとりとした愛撫。あー、気持ち悪い。後々この傷は膿むんだろうな、と体にはどこにも無い傷のゆく末を想像しながら、私はまた私じゃないみたいに喘いだ。
 
 ことが終わり、うんざりしながら下着を身につけると、どうでもいい男が水のペットボトルを差し出した。私は「ありがとう」と心にも無い言葉を口にして、乾いた喉を潤す。また男の名前を聞く気にもなれなかった。すると、男が満足気に言った。
「昔から思ってたんだよね。やっぱたちばなってエロいんだな。っつうかもっとセックスしなよ。さっきそんなに経験ないって言ってたけど。もったいねえじゃん。」
「もったいない?」
「いいカラダしてんのにってこと。そんなことよりよー、橘ってさ、俺がお前に告白したこと覚えてる?」
私はなんだかイラついて、吐き捨てるように「全然」と答えた。
男は「だよな」と自嘲して、ペットボトルの水をひとくち飲むと、私が胸の中に閉まっていた大切な名前を口にした。
「お前、いっつも陽介のことばっか見てたもんな。小林陽介」
 
 ヨースケ。その名前はまるで呪文みたいに私の記憶を呼び起こす。ヨースケくんの使うシーブリーズの香りが、彼の汗の臭いと共に風に漂ってきた夏の瞬間の記憶を。教室の窓際の席で居眠りをしている彼の長いまつ毛。音楽室でピアノを弾く彼の細長い綺麗な指先。そんな記憶を。そう。私はヨースケくんが好きだった。
 
 黙ってしまった私に、どうでもいい男が「どうかしたか?」と聞いた。
 こいつの無神経さに腹が立った。私はこれ以上この男のそばに居たくなくて、急いで服を着るとそのまま何も言わずに男のアパートを出た。
 
 外はどんよりとした曇り空だった。梅雨がまだ明けておらず、じめじめとした空気が余計に気を重くさせる。駅までの道のりを歩きながら、ヨースケくんがもしもまだ生きていれば、と思う。いや、もしかしたらまだ生きているのかもしれない、とも。
   
「焼きそばパン買ってくるわー!」
高校3年の夏も終わりに近づいていたある日、ヨースケくんはいつもつるんでいた友達にそう言って昼休みの教室を後にしたまま忽然と消えた。彼の声を耳にしたクラスのみんなは当然、購買部に行くのだとしか思ってなかった。昼休みが終わって、授業開始のチャイムが鳴ってもヨースケくんは教室に戻ってこなかった。
「ヨースケ購買部行ったんじゃなかったの?」
「もしかして、急に具合悪くなって保健室行ったとかじゃない?」
「居ないってさ」
「先生がヨースケくん家に電話したらしいけど、帰ってないらしいよ」
「マジで?アイツどこ行ったんだよ?」
教室はざわめいた。他にも購買部に行った生徒はいたし、校内で誰かがヨースケくんを目にしていてもおかしくないのに、みんな口を揃えて「見てない」と言った。それからずっと、ヨースケくんがみんなの前に姿を現すことは無かった。
 
   昨日の同窓会でみんなが彼について一切触れなかったのは、忘れたからなんかじゃない。ヨースケという名前を出さないこと、彼について触れないことはあの夏から暗黙の了解とされてきたからだ。
   当時、ヨースケくんがいなくなったことで、学校だけでなく世間も大騒ぎになった。彼は以前も全国ニュースに取り上げられたほど、将来を有望視されたピアニストの卵だったからだ。数々のピアノコンクールで1番になった彼は、有名音楽大学から引く手あまただったはずだ。だからクラス中が動揺したのは言うまでもない。受験を控えて、あんなに勉学にもピアノレッスンにも励んで、前しか向いていなかったクラスでも人気者の彼が、姿を消す理由なんてどこにも無かった。
   事件に巻き込まれた可能性も視野に入れた捜索が続けられた中、ヨースケくんのご両親は悲しみに暮れていた。マスコミの対応にも追われ疲弊していき、やりきれない思いを次第に怒りへと変容させた。そしてその怒りの矛先はあろうことか私たちに向けられたのだった。

「陽介はいじめにあっていました。」

玄関先で、マスコミにそう訴え出すヨースケくんのご両親。取材陣が食いつかないはずがなかった。テレビの中の嘘は、たちまち〈真実〉となっていく。その一連の流れが、私たちにとっては非現実的で、理解が追いつかなかった。

 始まった犯人探し。
無いはずの事実が噂され、世間に作られていく〈真実〉は私たちを苦しめた。

だから私たちは結束した。自分たちの将来のために、ヨースケくんのことを口にしないようにしたのだった。学校の内部調査の一環で、ひとりひとり職員室に呼び出されても、それぞれがいじめなんか無かったという主張を繰り返した。校門で待ち伏せするテレビ関係者に質問をされても、無言を貫いた。ただただ静かに、時が過ぎていくのを待った。そして私たちはヨースケくんのことを本当に忘れてしまったかのように振舞った。それが日常となった。

 マスコミの報道熱が冷めると、次第に世間からヨースケくんの存在は忘れられていった。でも私は当たり前に彼を忘れたりなんかしていない。みんなもそうだ。彼が法律上死亡したとみなされてからも。でも、まだヨースケくんのことを口にできるほど、みんなも私もあの辛い日々を完全には消化できていない。だから、上京組で会おうと小さな同窓会をすることになったことに、私は疑問を抱いた。高校を卒業してから初めての同窓会。みんなどういう気持ちで集まるのだろうかと。でも会ってしまった今ならわかる。みんながあの過去と、ヨースケ君が死んだとされた事実をきちんと受け止めるための糸口を探そうとしていたことが。誰の傷も抉らないように。結局、その場で誰もヨースケくんのことを口にはしなかったけれど。それなのに、あの男は。そんなことを考えていたら、ヨースケくんが音楽室のピアノで弾いていたショパンのノクターンがどこからか聴こえてくる気がした。

   自宅に帰ると、汚れた身体を清めるかのようにシャワーを浴びた。ふと、鏡を見た。胸元に痣。もしかしなくても、キスマークだ。
「最悪」
あの男に印をつけられてしまった。ヨースケくんではなく、どうでもいい男の存在の証明が私の身体にあるなんて。ちゃんと消えるんだろうか。気づけば泣いている自分がいた。恋人がいないとはいえ、好きでもない男と寝たことはしっかり傷となっていた。やわでもないけど、私は自分で思っていたほど強くもなかったみたいだ。


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