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文・キミシマフミタカ (4132字)

 湯ヶ島の四つ辻に、笑顔の「井上靖」が立っていた。坊主頭の少年で、絣の着物に帯を締めている。少年「井上靖」は四つ辻の真ん中で、くるくると回り出す。両手を横に広げて、バレエダンサーのように回転し始める。上手なものだ。すごい早さで回転するため、竜巻みたいな風が巻き起こる。落ち葉が浮き上がって、大きな黄色の渦になる。僕らは関心してそれをしばらく眺めた。「しろばんば、しろばんば」と少年「井上靖」は声を上げる。

 暮れもおしつまった頃、僕と妻は伊豆の湯ヶ島を旅した。よく晴れた日曜日で、空気が氷の塊のようになって空気中に浮かんでいた。湯ヶ島のバス停、夕鶴記念館の前でバスを降り、少し歩くとその四つ辻があった。辻の角には「上の家」があった。「上の家」は、「井上靖」の母の実家で、自伝的な小説「しろばんば」にも登場する建物だ。

 なまこ壁が印象的な建物で、最近改修されたばかりだという。たまたまその日は、月に数回ある開館日にあたっていて、僕らは家の中を見学することができた。

 玄関で靴を脱いで上がると、ボランティアの女性が中を案内してくれる。一階は広々とした畳の部屋で、一族の写真や昔の土蔵の模型や家系図が展示されていた。僕らは、母親方に親戚が多いその家系図に見入る。少年の頃の「井上靖」は、住んでいた土蔵とこの「上の家」を、一日に何度も行ったり来たりしていたという。

 急な階段を登って二階にいくと、少年「井上靖」が寝転がって本を読んでいた。学校の副読本らしい。その向こうに大きな観音扉があり、柿の木と天城の山が見える。なんの本を読んでいるのかと覗き込むと、「あすなろ物語」だった。僕らに目を向けることなく、一心不乱に読んでいる。僕らは読書の邪魔をしないように、静かに窓から外を眺める。鴨居の上に、大きな薙刀が飾られている。曽祖母が武士の娘で、嫁入り道具として持ってきたものらしい。気がつくと少年「井上靖」が、僕らにそう教えてくれた。

 よく見ると利発そうな少年である。僕らの好奇心を掬い取り、的確な言葉で情報を伝達してくれる。やや甲高い声だ。くりくりした目がよく動き、俊敏そうに手足を動かす。やがてパタパタという足音をたてて、勢いよく階段を降りていった。喧嘩も強そうだ。

 一階には談話室がつくられていて、僕と妻はボランティアの人たちに呼ばれてお茶を飲んだ。彼らはちょうど「井上靖」の墓地に行って、瓊花(けいか)を摘んできたところだという。大きなボウルに、瓊花の種が入っていて、それを見せてくれた。

「私たちはこの外来種の瓊花を増やそうとしているんです」

 と年配の男性が説明してくれた。瓊花は中国が原産で、鑑真和上を介して日本に入ってきた。唐招提寺や飛鳥寺などに植栽されているという。それが(どういう理由なのかはよく理解できなかったが)「井上靖」の墓の周りに植えられているらしい。

 瓊花はスイカズラ科の低木で、春になると芳香のある黄白色の花を咲かせる。少年の「井上靖」は僕らの前に坐って、にこにこしながらその説明を聞いていた。

 僕はその年配の男性に、昔から疑問だったことについて質問してみる。

「向こうの部屋に、井上靖の叔母にあたる、さき子さんの写真がありましたが、彼女は『あすなろ物語』に出てくる冴子のモデルになった女性でしょうか? あの天城山中で心中してしまう女性です。一方、『しろばんば』では、実在の叔母と同じ、さき子という名前の女性が出てきて、胸の病で亡くなります。その容姿や言葉遣いから、冴子とさき子のモデルは同一人物であると思われます。その解釈で正しいのでしょうか?」

 僕の質問に、年配の男性は一瞬戸惑いを見せ、首をひねる。

「それは文学的な問題ですね。そういうことは、うーん、専門家の先生に聞かないとわかりません」。

「でも」と横にいた年配の女性が助太刀をしてくれる。「さき子さんは、井上先生の初恋の人だったと言われています。だから、その存在を美化するために『あすなろ物語』では、雪の中で死なせたのかもしれません」

 その声は、途中から少年「井上靖」の声になっていた。彼は、着物の袖を捲り上げ、体の前で腕組みをしてちょっと首を傾げ、いっぱしの文学少年のようだ。でも少年「井上靖」は、「かもしれません」と言う。すべてを明らかにするつもりはないようだ。

 やがて少年「井上靖」は、体をもじもじさせながら立ち上がる。もうお茶の時間はおしまいということだ。早く外に出て遊ぼう。そう言っているようだ。僕らもそれを機に立ち上がる。ボランティアの人たちに、お茶とお菓子のおもてなしのお礼を言う。

 四つ辻の反対側には、少年「井上靖」がおぬい婆さんと暮らしていた土蔵の跡地があった。少年「井上靖」は、僕らの前に立って案内してくれる。ときどきこちらを振り返り、僕らがちゃんとついて来ているか確認しながら足早に歩く。敷地内には大きな幹の「あすなろ」の樹木が立っていた。少年「井上靖」は、僕にその木を触るように促す。緑の苔が生えた樹肌に触れて目を閉じると、今までに感じたことのない、泡立つような感情が身の内にわきあがるのを感じた。そう、僕自身がいまだ「あすなろ」なのだ。

 土蔵はもうなくなっていて、跡地は花壇になっていた。冬なので花はなく、円形状に配置された花壇のレンガが、まるで古代遺跡の発掘現場みたいに並んでいた。

 僕はそこにしばらく立ち尽くし、古代に思いを馳せる。自分はここにいなかったはずなのに、自分がいたように感じる。「それはそうだよ。少年時代に『しろばんば』を読んだのだから」と少年「井上靖」が、くすくす笑いながら言う。『しろばんば』を読んでいた頃の少年の私に、少年「井上靖」が小さな手を置く。その手の暖かさが伝わってくる。

 それから僕と妻は、その日の宿に向かう。少年「井上靖」は、僕らの前後を子犬のように行ったり来たりしながらついてくる。石ころを蹴飛ばし、路傍の草をむしり、口笛をふいている。僕らには子どもがいなかったが、もしいたら、こんな少年だったらいいのになと思う。妻が少年「井上靖」と見る眼差しは、これまで僕が見たことのない目だ。妻は道の途中で手を伸ばし、少年「井上靖」と手をつなぐ。彼は少し恥ずかしそうに、でも妻の手をぎゅっと握りしめる。僕はその二人の後ろ姿を眺めながらゆっくり歩く。

 湯ヶ島の風景は、思っていたよりも明るく柔らかいものだったが、山中のせいで夕暮れは早い。空の青さが少しずつ薄れ、雲が黄金色に変わっていく中で、二人の姿が影絵のように黒くなっていく。僕自身も風景の一部となり、夕暮れの中に溶け込むようだった。

 その宿は、かつて川端康成が滞在していた宿で、通称「踊り子の宿」といわれている。百年以上たつ建物だが、綺麗に手入れがされている宿だ。玄関に入ると、正面の階段に青年「川端康成」が座っていた。踊り子の舞う姿をそこに座って見ていたという階段だ。まだ若く、色白で生真面目な顔をしている。玄関で靴を脱ぐ僕たちを静かに見つめている。

 少年「井上靖」は、青年「川端康成」になにか目配せをしたようだ。ここから先は任せたよ、というわけだ。役割をバトンタッチしたのだろう。少年「井上靖」は僕らに手を振って玄関から出ていく。僕らも少年「井上靖」に手を振り返す。また会おう。

 振り返ると、青年「川端康成」が立ち上がり、手招きをしている。

 青年「川端康成」は、宿の二階の角にある、自分が滞在している四畳半に案内してくれた。本棚があり、初版本らしき著作や全集が飾られている。ここに彼は半年間くらい滞在して、「伊豆の踊り子」などを執筆した。部屋の真ん中に火鉢がある。想像していたよりも小さな部屋だ。昔は部屋の窓の外に街道が通っており、人の往来があったという。青年「川端康成」はときおり窓の外を眺めながら、原稿用紙に向かっていたのだ。

 青年「川端康成」は、ちょっと神経質そうな眼差しで僕らを見て、落ち着かなそうな表情を見せる。彼は耳のかたちに特徴がある。僕はしげしげと耳を見てしまった。青年「川端康成」は、初対面の僕らに、何をどうしたらいいのか、ちょっとわからないようだった。僕らもとくに質問はなかった。妻が僕の脇をつつく。早々に退散しようという合図だ。

「どうもありがとう」と僕は言う。青年「川端康成」は、ほっとしたような表情を見せる。僕らの部屋は、彼の部屋の斜め向かい側にあった。乙女「宇野千代」のお気に入りの部屋だったそうだが、乙女「宇野千代」は姿を見せなかった。それはそれでよかった。

 宿の並びには、共同の温泉がある。少年「井上靖」が訪れていた「西平の湯」で、いまは「河鹿の湯」という名称になっている。そこには観光案内の札が立てられていて、「しろばんば」の一節が書かれていた。少年「井上靖」が、仲間たちと共同湯で遊んでいた無邪気な風景が描かれている。ここにその一節を引用したいと思う。

「洪作たちは共同湯に着くと、われ先にと真っ裸になり、思い思いに浴槽に飛び込んで、湯の飛沫を上げて暴れた。建物の傍を大きな川が流れていたので、裸で河原に出て、大きな石を運んで来て湯の中に投げ込んだりした。(中略)洪作たちは、さき子に叱られても叱られても、そんなことにはいっこうに構わず暴れた。さき子の白い豊満な裸体が湯しぶきの間からまぶしく見えた」

 やはり少年「井上靖」にとって、彼女は初恋の相手だったのだろう。

 宿には男女の内風呂と、川沿いの河原に露天風呂があった。露天風呂は気持ちがよかったが、やや湯温が低くて、僕と妻は屋内の家族風呂に入り直すことにした。

 その家族風呂は小さくて、親密な空間だった。締め切られた窓を開けると、冷たい空気が入り込んできて、湯気が立った。お湯は、その湯気の中であたたかく揺蕩っている。僕は湯に浸かる妻の白い背中をまぶしく見た。お湯の中でそっと手を伸ばしてその背中に触れてみる。いつのまにか湯気の向こうに少年「井上靖」がいて、僕に微笑みかけている。とても肯定的で、力強い笑顔だ。僕は少年「井上靖」に向かって、小さく頷く。(了)



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