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能登・金沢工芸の歴史と「おもてなし」



第1章: 江戸時代以前の工芸

能登・金沢地域における工芸の歴史は、須恵器の生産活動に始まります。加賀地方では、小松市南部の広陵地帯に須恵器の古窯跡群が存在し、八世紀には「一国一窯」の形を取っていたことを示しています。しかし、十一世紀に律令制が崩壊し、地方権力者の庇護を失うとともに、須恵器の生産活動は次第に衰退していきました。

十二世紀になると、愛知県猿投地方で確立された瓷(じ)器生産の施柚技法が導入され、中世古窯が新たに成立しました。能登地方では、珠洲から内浦へかけての地域に珠洲古窯が成立し、須恵器の技法をそのまま継承しました。

加賀では、窯の分布状況が一地域に集中しているのに対し、珠洲では単独窯が分散して存在していました。これは、加賀では半ば専業家した長衆による経営、珠洲では土豪的な古い形を残す名主層の副業的な経営であったことを示唆しています。生産された品々は「甕」「壺」「擂鉢」などの生活雑器であり、川を伝って広範囲に販路を広げたことが古窯を育てる要因となりました。


第2章: 江戸時代の工芸

江戸時代における日本各地の伝統工芸の多くは、その地域を支配した大名が深く関わっていることが多いです。石川県の工芸も例外ではなく、加賀・能登地域の支配者である加賀藩主の前田家の関わりを抜きにしては語れません。前田家は、初代の利家以来、茶の湯を通じて文化事業に深い関心を寄せていました。

利家は豊臣秀吉の「北野大茶の湯」に参加し、茶会の実務を担ったとされています。利家はまた、文禄・慶長の役が終わった後に秀吉から「富士茄子茶入」を拝領し、利休の門人となりました。息子の利長も茶道に通じ、キリシタン大名の高山右近から茶を学びました。

三代藩主の利常は文化大名として知られ、工芸の振興に力を注ぎました。彼の時代には、京都や江戸から多くの名工が招かれ、細工所で指導に当たり、加賀蒔絵や加賀象嵌を中心とする工芸技術の基礎を築きました。特に、「加賀友禅」の源流である「加賀染め」は、城下町の紺屋が御用紺屋に指定されて生産されました。


第3章: 明治・大正・昭和の工芸

明治時代以降、工芸活動はさらなる発展を遂げました。新たな技術とデザインが導入され、能登・金沢の工芸は全国的に知られるようになりました。学校や展示館が設立され、専門的な教育が行われるようになりました。

能登半島先端の「輪島塗」は、地域の庶民の日用品としての漆工芸から発展し、江戸時代を通じて繁栄しました。輪島塗の技術は、地域の風土と結びつきながら成長し、今日でもその美しさと実用性が評価されています。


第4章: 工芸と「おもてなし」

能登・金沢の工芸は、その歴史とともに地域の「おもてなし」の心を象徴しています。前田家の文化政策によって育まれた工芸技術は、今日でも地域の誇りとして受け継がれています。茶道における器や道具、日常生活を彩る工芸品は、人々の生活に豊かさと美しさをもたらしています。

「おもてなし」とは、相手を思いやる心から生まれるものであり、その心が工芸品の一つ一つに込められています。能登・金沢の工芸は、地域の風土と人々の心を映し出すものであり、その美しさと技術は世界に誇るべきものです。

今日の能登・金沢の工芸は、歴史とともに発展し、地域の生活と深く結びついています。その中で培われた技術と精神は、今もなお人々の生活を豊かにし続けています。そして、この地域から生まれる工芸品は、世界中の人々に感動と喜びを与え続けているのです。

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