三流絵師 八話 【短編恋愛小説】


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

八話

乱れた布団を押して起き上がると、足元に浴衣が転がっていた。
そのまま寝てしまっていたのだろう。いつのまにか時計は午前五時になっていた。立ち上がろうとしたが、腰の重みでへたり込んだ。
足が押し付けられていたせいか、畳の後がくっきり残ってしまっている。
太ももが痛い。全身に鈍いだるさが走る。首をもたげると、視界の隅で明野が動いた。
「おはよう」
明野は微笑むと、里見に近寄りそっと額にキスを落とした。
これは夢なんじゃないかと思う。
だって知らない誰かを操っているような。そんな知らない靄の中にいるようで。
でも、その靄が心地いいから出たくない。
「体、大丈夫?」
また倒れ込みそうになったのを抱えられた。頭をぽんぽん撫でられる。
「昨日、何回した?」
「そんなにしてない。三回くらいかな」
「三回も抱いたの・・私を」
部屋に備え付けの茶を渡される。まだ朝早いのに起きていたのか。
よく考えれば、突然美術館近くの店であって、富岡の知り合いで、天才画家で。
自分が最も憎む男だった。これしか明野の情報がない。
それがこうして一緒に旅行して、恋人みたいに朝を迎えている。
「昨日、やっぱり怒っていたの?」
「どうだろう」
瞳に昨日の怒りの色は消えていた。その代わり、何か決意したような鋭い眼光が見えた。明野はとんと里見の指先に触れて、そのまま柔らかく握った。
「俺はね、里見。君に殺したいと言われた時、嬉しかった」
「ごめんなさい、それは」
「謝って欲しいわけじゃない」
どうしてそんな真剣な顔をするのだろう。でもやっぱり明野の顔は嫌いじゃない。
「君を抱いていると、どうしようもなく切なくなる」
指の間を明野の大きい指でなぞられる。
傍からみれば甘ったるい空気でも、なんだか里見には甘さを感じなかった。
「君は言ったよね、恋愛ができない人間だって。それは俺も同じ。でもさ、どうしても君を欲しいと思ってしまう。君と同じ理由で。それが腹ただしくてね」
「先生も一緒?」
「大好きだよ、里見」
明野は淡々といった。それを言われると再び里見には荒野が見えた。どこまでも見たいものを求めて藻掻き続けた、あまりにも広い荒野が。
「だから、軽はずみに俺に好きだなんて言わないことだ」
強い口調だった。だから怒っていたのか。
「俺のことが嫌いだってもう一回言ってほしい。それくらい君に焦がれている」
どうしてこんなに嬉しいのか里見にはわからなかった。
ずっと背中を見て来た相手がやっとこっちを向いた。じゃあもう一度嫌いになれるか。それはできない。心から溢れるのは、深い敬意と、恋愛感情とはまた違う形の愛おしさだった。
「里見になら殺されてもいいよ」
この歪な絆が、もっと固く繋がって離れないように。そのためなら何度でも体を繋げよう。恋人にも友人にもなれない彼のために。
「馬鹿だな、私」
「俺も馬鹿だから。そうでないと困るよ。こんなに好きにならない」
最愛の女性に贈る言葉にしてはあまりにも淡白な言い方だ。どうしてか、映画を見た後の気分になった。
「恋ができたって舞い上がったのに。残念だな」
冷えたお茶を飲む。
すると、明野はくつくつ笑いながら横になった。いつのまにか自分だけきっちり服を着ている。里見はほとんど裸に近いのに。
「ねえ、里見」
「何?」
散在した服を拾い集めていると明野がふと里見を呼んだ。
「結婚する?」
それをきくと、里見は噴き出してしまった。さっきまでの話はなんだったのか。こんな古い旅館で、しかも空の湯飲みの前でプロポーズはない。明野が女性に殴られるのもわかる。
「結婚は無理でしょ」
「そうだね」
明野はあっさり身を引いた。
「里見は芸術がわかる金持ちと結婚して、広い家で絵を描いて、旦那は海外出張でなかなか家に戻らない。そして俺みたいな男と夜の街に消えるのがいいよ」
上に視線を向けてこう言い切る明野が、なんだかおかしくて里見はまた笑った。
「でも真剣にプロポーズされたら、断れないかな。先生に」
「じゃあ、本気でしようか」
明野は悪戯っぽく笑うと、部屋の隅にあるカバンから何か取り出した。何か用意しているということは、こういう展開になると予測していたのだろうか。
カバンからでてきたのは大きなスケッチブックだった。
「私、絵はもう描きたくないって」
「そうじゃなくて、ほら。これ見て」
明野はもう一つスケッチブックを取り出した。開くと明野の世界がぎっちり詰め込まれている。コンテや鉛筆で走り書きしたものから設定が細かく描かれているものまで様々だ。
「これは里見にあげる」
やはり明野の絵は凄い。情熱が詰め込まれている。遊びにいきたいと心から思える絵だった。
今なら心の底から称賛を送れる。
「ありがとう」
こんなに満たされることがあっていいのだろうか。明野は弾けるような里見の笑顔を眩しそうに見つめた。
「よかった。里見は俺のこと嫌いだから、破り捨てられるかと思って怖かったよ」
「そんなことしない」
里見はぐっと喉につかえた言葉を必死で紡いだ。言いたくなかった。悔しかったから。また泣きだしそうになってしまうし、また逃げたくなる。

「私、先生の絵、好きだよ」

それを聞いて少し固まった明野だったが、苦しいくらい里見を抱きしめた。なにも言わずにずっと里見をきつく抱きしめ続けた。心から愛おしそうに、二度と離してくれないかと思う程に。
こんなあらゆる人間の中の一人の言葉。それを貰ってどうしてこの人はこんなにも喜ぶのだろう。こんなに喜んでくれるなら、言ってよかったと思えた。

それからスケッチブックをしまうと、旅館の朝食を食べた。
旅をまだ続けたいと言うと、明野は里見の言葉に目を丸くした。
「じゃあどこに行く?」
「どこでも。遠くに」


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