三流絵師 四話 【短編恋愛小説】


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

四話

まず慌てて服を着て、葛西改め明野に土下座する勢いで謝り倒した。謝りながらもそこは里見円である。明野に対する恨みや罵倒を混ぜながら声高に演説もした。明野はその姿を面白そうに見た後、再び里見を抱きしめて布団の中に引きずり込んだ。
やめろと藻掻く里見を押さえつけて明野は目を閉じた。
あまりに力が強くて振りほどけず、心労で疲れ切っていた里見はそのまま宿敵の胸の中で気持ちよさそうに眠ってしまった。
明野のせいで心かき乱され荒んでいたというのに、それを明野に慰められる。
これは一体どういうことか。
「お前、何がしたいの?」
里見が寝起きにぼやくと、明野は特に何もと返した。
「先生を応援したいだけですよ」
身支度をかなり妨害されたが、里見は無事に万札を叩きつけて脱走に成功した。
早くでていかなければ、どうにかなりそうだ。

それから数日経った。
明野の甘く低い声や全身が震えるような巧みなテクニックを思い出すと、里見は倒れそうだった。画材以外生活感のないアトリエの中で、里見はキャンパスと向き合っていた。
里見は何となく絵の具を混ぜた。パレットに無造作に朱色を出すと、べたべたと紙に塗り込んでいく。
細い筆で焦らすように色を置いた。紙と筆が擦れる度にこちらに鳥肌になって伝わる。
何の特徴もない、ただの抽象画のような絵が出来上がったが、それを見ていると、何だか里見は恥ずかしくなった。
普段里見が使わない明るい色がふんだんに使われており、まるで暗い穴から一気に噴き出した何かのようだ。それが何だか喜びにあふれた色をしていた。適当に色を選んでいたせいか、自分らしくない絵ができていた。
それを選ばせたのがあの時の行為だとわかると、里見は頭を抱えた。
そして久しぶりになんの悩みもなく夢中で絵を描いた。
こんな恥ずかしい絵は誰にも見せたくなかった。

「何かいいことでもあったのかな」
だから後ろから声をかけられた時は叫んでしまった。
「明るい絵だね。あまりに夢中になっていたから、私も声をかけるにかけられなかったよ」
「富岡先生・・」
彼を見た途端、この野郎と里見は富岡をにらみつけた。富岡は察したのか笑い出した。
「明野に私のことを教えたのはなぜです」
「彼には会えたのかな」
「私は明野に会いたいなんて頼んでいません」
「ごめんよ、里見君。彼は君にどうしても会いたいと言っていてね。あまりに熱心だったから気の毒に思って」
富岡は赤い絵を手に取るとじっと見つめた。そしてなんの意味があったのか「ああ」と小さく声をだした。里見はその場に崩れ落ちたいのを懸命に堪えた。
「彼の絵はどうだった」
「上手でしたよ、とても」
「君なら明野君を気に入ると思っていたよ。君と違って明野君は静かなタイプだからね。彼と君は正反対でとても相性がいい」
頭の中で何度も明野の首を切り落とそうとした。
そうすると、彼は斧を振り上げる里見の方を向いてこういうのだ。「先生の作品が好きです」と。明野への憎悪を膨らませようとすると、どうしてもあの時の情熱的な愛撫を思い出す。もしかして、あいつこれを楽しんでいたのか。まあもう会うことはないけど。
「女性には好かれそうですね。ああいったのは」
表情に出さないように里見は後ろを向いてこの前の紛争の爪痕を拾った。
「ところでなんの御用でしょう。私、もう落ち着いているので大丈夫ですよ」
「それだけど、いい話だ」
富岡は絵の具で汚れたテーブルの上に分厚い資料を乗せた。資料の西暦は五年後だ。
大万国博覧会と書いてある。万博なんてあったのか。
「今度行われる万博の日本館を担当してくれる芸術家を探していてね。そのための募集をかけているそうだ。選ばれるのは三名。それぞれスペースが与えられて、日本の(和)をテーマに作品を展示する。素人からプロまでどんな人からも募集をかけるそうだから挑戦してみてはどうだね。私からは君を推薦したいのだが」
アトリエの一角で腐っているだけではだめだ。突然振られた話だが、断る理由ももちろんない。
「つい昨日、応募が解禁されて締め切りはなんと二週間後。短期間の間に新しい作品を作ってもいいし、君の自信作を出してみてもいい」
「やります。もちろん」
オーディションに受からなくてはいけない。
そしてオーディションの話を振られたとたん、里見の中で明野の存在が消えた。
その代わりに今まで世に出せなかった数多の亡霊が背後に見えた。
水子は呻きながら里見にしがみついてくる。彼らを生み出せなかった罪悪感があるのに。
親になれなかったことより、次生まれるのはどんな作品か。里見はその方が何よりも楽しみなのであった。目の色を変えて参加の表明をした里見。富岡は嬉しそうに頷いた。
「明野君は君の助けになったかね」
「彼は確かに天才です」
里見は新しい筆を出しながら、絵の具の量を確認していた。
「安心してください、先生。必ず私が選ばれます」
そう宣言した里見の口調はどこか機械的だった。もう頭には明野のことなどない。ただ、生み出さなくてはならない次世代の姿があった。里見は既に、頭の中のパレットに色を置いていた。
そしてテーマの「和」である春の桜や夏の木漏れ日が見えていた。
明野の後姿も首を狙う里見もない。明野から遠く離れた荒野で里見はスケッチブックを開いた。そして大空を見つめ、自分にしかない世界を眺めている。里見の中で大衆も富岡も明野も消えた。その様を富岡は直ぐ近くにいながら随分遠くから見つめた。
「君はそうでなくては。君にはいつも上を向いていてほしい」
「素敵なお話を下さりありがとうございます」
孤独は悲しいものではない。瞳に映る色彩は里見のものだ。
孤独が悲しいものだと気づくのは魔法が解けた時だ。うっかり周りを見てはいけない。
里見が上手く上を見られるように、支えているのが明野の言葉だと、それを里見はすっかり気づいていなかった。

明野とは会うこともなかった。
里見は二週間がむしゃらに己の心と向き合った。
既存の作品を出品してもいいが、それでは満足しなかった。
こんなに苦しいのに、まだ生まれてくれない。かなりの難産だなと里見は思った。
明野の一見で、里見は他の芸術家の作品に触れるようになった。彼らと里見とは同じ表現者でありながら描くものは全く別だった。
同業者にあっても、どこかで切なさを感じずにはいられないのはきっとこのせいだ。
悲しいとか苦しいとかそんなことを考えているのは、きっとどこかでリミッターが外れていないせいだと里見は思った。今は久しぶりに自分の世界を思いっきりぶつけられるのだ。
動くしかない。

そこで里見はそっくり荷物をまとめて、外に出ることにした。
日本の自然に直に触れたいと思った。
あらゆる緑や寺を見て回った。その場所その場所には人がいた。自分とは明らかに違う人種。観光地を珍しそうに眺めている。彼らの中にも美しさを定める審美眼はあるだろうが、それを表現し、自在に操るのは里見だけだ。
そう思うと里見は無性にワクワクして子供のように駈け出した。
昔の建造物は素晴らしい。時間さえも材料にして人に畏怖まで抱かせる。剥き出しになった古い木の材質や、やうっすらと浮かぶ年輪まで。日本独自の木造建築は圧巻だった。
歴史の重みと大自然への敬意。命や時間の重みが強く染みついた日本という国は、ついには人と自然との境界すら無くそうとしていた。これは海外ではあまり見られない価値観だ。
そこへしんみりと虫が鳴き、どんな建物にも古い土の匂いが染みついている。
まるで香のように浸透していく洗練された空間は、確かに里見を揺さぶって離さない。
外に出るのがこんなに楽しいとは。里見は感動で打ち震えた。

アトリエに戻ると、取りつかれたように筆を引っ掴んだ。
里見は緑を使って仕切りに飛沫をかいた。そして虫の声を風景に閉じ込めた。
時に自然を体現した荒々しい筆遣いで、時に大人しく繊細に筆を運んだ。
里見の作品のファンのことや明野のことはもう頭にない。里見自身のために。里見は只管キャンパスの上を走り続けた。
それを何百も繰り返した後、「あっ」と声をだして里見は筆を止めた。
繊細さと荒々しさとで囲まれた紙は、既に世界を十分に表していた。これ以上手を加えると別物になってしまう恐れがあった。
里見はふっと作品に息を吹きかけた。すると作品は更に色濃く輝きだし、この世に産み落とされた喜びを噛みしめる。
アトリエには、ボツになったものが何枚か床に転がっていた。無数の屍の中でこの絵だけが生きていた。里見の心そのものだった。本当に作りだしてしまった。
既に二週間たとうとしていた。

作業が終わると、里見は汚いソファーの上に寝転がる。そう言えば朝から何も口にしていない。アトリエのほかに里見は両親に貰った家があった。だが、都内の高級マンションではうまく休まる気がしない。今ではアトリエにいる時間の方が長かった。
(私は恵まれているほうなんだ)
こう考えながら天井を見る。
里見は裕福な家庭の出身だった。一人っ子で父は経営者である。里見は昔から勉強が大嫌いでずっと絵ばかり描いていた。父はそんな里見にきつくあたり、里見の描いた絵を破り捨てたこともあった。里見は泣きながら父にとびかかった。
「こんなゴミは捨てろ」父は怒鳴った。
「お前のような人間はこの世に何万人もいる。大した才能もないくせに調子に乗るな」
作品が破られた時、自分の心臓まで抉られたようだった。激しい痛みに里見は大泣きした。
それでも里見は勉学に手を付けず、絵を描き続けた。
哀れに思った母親が美大を受験するのを許してくれた。父は作品にどんな価値があるのか理解できないらしく、里見の絵をつまらなさそうに見ていた。
(私は今、親父の言うような名前もない何万人だ)
自分の世界が優れている。誰だってそう思うし、みんな見てほしい。
(あいつらはゴミなのかな)
床に転がったボツ作品を見る里見。なんだか死体を眺めているようで気分が良くない。
(私もこうやってゴミみたいに消えるのかな)
床の作品と一緒に天井を見つめてみる。作品が完成すると、言いようのない不安が襲ってくる。床の作品と一緒に孤独死しそうな部屋。
自分がここで死ねば、体が融けて油と骨になって、作品の色と混じるのだろうか。
そうして心の中から、暴き出せなかった忌み子たちの供養になるだろうか。
(ごめん)
ソファーに転がっていると激しい虚無感が襲ってくる。本当に自分の世界は認識する価値のあるものなのだろうか。人間は里見に慈悲の手をくれるのか。
(私も人間でいた方が幸せだったのかも)
中途半端に与えられた「造る」力は、人間の体を持つ里見にはほとんど手に負えない。
まるで神のように「創造」を操る明野は既に人間を超えているのだ。
神が七日間で森羅万象を造ったというのに、里見は自分の心如きに振り回され、二週間も経過している。
「明野」の名前が二週間ぶりに出て来た。
荒野で手を止めて周りを見ると、何もない。やっぱり遠くで明野の背中が見える。きっと明野が見ている景色は綺麗なのだろう。

ソファーから下は地獄だ。自分が生めなかった亡者たちが、必死に手招きしている。
彼らに導かれ地獄に堕ちたらきっと楽だろうなと里見は考える。
自分の力に奢り、万象から生き血を啜って自分の世界に注いだ。そして上手くいかないと暴れてこの世を憎む。そんなやつは地獄行きだ。どうか地獄に堕ちても、創造することは赦してほしい。それにしても明野が憎い。


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