三流絵師 三話 【短編恋愛小説】


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

三話

ちょっとお洒落なロビーについたころにはもう、これから何が起きてもいいやと考えていた。淡々とフロントでチェックインをする彼を髪の間からそっとみる。
こんな危ないこと、御上りさんの小娘でもあるまいし自分には縁がないと思っていた。
よく見れば黒いジャケットも上品で洒落ているし、なかなかだ。
まさかこんな恰好でよかったのかと里見は絵の具だらけの服を見ながら考えた。
「先生」
いきなり低い声で呼ばれ、跳ね上がった。
広いロビーには他にも遅い宿泊客がいた。みんな腕を組んでいて、仲睦まじいカップルだ。ぐるぐる視界が回りだした。もしかして自分たちも傍から見れば恋人同士なのか。
それとも里見の恰好があまりに汚いため、捨て犬の介抱のほうが正しい。
里見は心臓を抑え、葛西に引きずられるようにして部屋に向かった。
「ちょっと休んでいてください」
慣れた手つきでジャケットを脱ぐ葛西。
大きなベッドの淵に座っていた里見は窓ガラスに映る葛西の更衣を心中穏やかでない様子で見る。葛西に背中を向けてごそごそと服の擦れる音だけ聞いていた。
「こういうことは初めてですか?」
服の音に混じって葛西の低い声がした。
「馬鹿にするな。このくらい」
このくらいしたことある。なにも経験がないわけではないのだ。こういう展開ならよくある話。後ろでくぐもった葛西の笑い声が聞こえた。うっかり気に入ってしまい、うっかり連れていかれてしまった。ここまでスムーズに自分を連れ込めるやつがいるとは。
「先に風呂に入れば?」
先に言われるのが悔しくて、里見は腕を組んだまま言った。
何でこうなったなんて頭の中で何十回も訊いた。自分の世界を聞いてくれて、ここまで自分の作品が好きだと言ってくれた人。どうせこれで関係は終わるかもしれないが、それだけで生きていけそうだ。彼女は面倒くさい性格のくせにたまに単純だった。
「一緒に入ります?」
絶妙な間をおいていきなり葛西が切り出した。里見は馬鹿と叫びながら顔を覆った。
「私の作品を散々褒めておきながら、私の身体が目当てなの!?」
「すみません。ずっと憧れていた人だから。こうなったのがつい嬉しくて」
「わかったよ。わかったから早く風呂に入って」
浴槽の扉が閉まる音を聞いて、ほっと里見は胸をなでおろした。
単にそういう気分になって里見をここまで誘っただけかもしれない。だが、明野星にめちゃくちゃにかき乱された心は、別の何かでかき乱してもみ消さなくてはいけない。
明野があんなにいい作品を作るのか。隙さえできれば思い出される、あの感動と屈辱。そっと手を伸ばしてしまいそうになる明野の世界観。

浴槽の扉が勢いよく開く音とうっすらと見える湯気に里見の回想は中断された。
葛西には一瞥もくれずに大股で脱衣所までいくと、里見は風呂の中に飛び込んだ。
荒く熱湯を体に叩き込む。肌の上をシャワーの水が跳ねて落ちていく。
自分では使わない葛西の香水の匂いが鼻をついた。浴槽にはやや冷えた水溜まりができている。共同の風呂場を使っている状況に心臓が痛くなる。
同時に体の火照りが強くなり、ドンと重くなった腰は血の巡りを早くする。
全く持って馬鹿だと思う。褒められたくらいで舞い上がって、ここまでほいほいついてきて。
馬鹿だなと思うと同時にこのまま煙の中で消えたくなった。丁寧に体を洗おうと思ったが、熱さに耐えきれずに浴槽の外に出た。
鏡の前に置いておいてくれたのか、バスローブがある。半分曇った鏡を見ると、紅潮しただらしない自分の顔があった。

「おいで」
その言葉に逆らえず、里見はフラフラとベッドに腰かけた。
ぼんやりした顔にそっと唇を落とされる。
(ふん、始まり方は悪くないね)
第三者目線で葛西を見てやる。こうでもしないとこの昂ぶりに呑まれそうだ。
紳士的だと思っていたのに、すぐに舌を引っ張りだされてぐちゃぐちゃにされた。
激しい水音が響いた。こんな口づけ殺されると里見は思った。
気づけば胸も露わになり、バスローブは肩からずり落ちていた。心臓の上で硬い手が柔らかい肉をほぐしていく。心臓を掴まれているようで恐ろしい。ずっと口の中で水音が響く。
こうしていると、忘れられる。あの屈辱の怒りが。
このまま死にたいと里見は思った。殺してくれないかと。
殺してくれたら孤独を感じることも、作品と格闘して涙することも、満足に作品を描いてやれなくて泣くこともないのに。明野のことを考えて暴れることもないのに。
それだけじゃない。この世界に生まれることが出来なかった作品がある。それらは水子の霊のように、里見を恨めしそうに睨みつけるのだった。
この世に生み落とせなかった数多の作品の亡霊を抱えて、里見は溺れそうだった。苦しいと思うから作品を出しても、認めてくれない。拾ってくれない。自分は天才のはずなのに、ずっと格上の人間が先に立っている。見たこともない明野の顔が笑っている気がした。
自分の作品が好きなこの男は、自分が頼めば殺してくれるだろうか。孤独に潰されそうなとき、里見はこうして生の快楽を貪りながら、悲しみを誤魔化している。
殺してほしいと願いながら生命に一番不可欠な行動を取っている。
明野を殺したいと思っている。でも本当は死ぬべきは明野ではなく自分だ。
「先生」
希死観念を募らせていると、葛西の甘い声が体に落ちてくる。
いつのまにか唇が離れている。音が無いのが寂しくて、思わず里見は口を動かした。
「先生、死にたい?」
「え?」
「だってさっき、死にたいって言ってたよ。お酒飲みながら」
驚いて目を見開くと、余裕のなさで濡れた葛西の顔があった。葛西の長い髪が里見の肌に落ちてくる。そこだけ柳に閉じ込められたみたいだ。愛おしそうに葛西が里見の鼻に鼻をくっつけた。
「先生、死んだらいけませんよ」
大事なものを抱えるように葛西は里見の身体を抱きしめた。里見は何となく頷いた。
「先生の作品は俺が一番好きですから、もっと作ってください」
でも認められなかった。この男以外、誰かまともに評価もしてくれるだろうか。それでは意味がないのだと呟きそうになった。
「俺は先生の作品が好きです。それじゃダメですか?」
そんなに真っ直ぐ欲しい言葉を寄こさないでほしい。一人の男のために、また描こうと思ってしまう。死にたくてしょうがないけれど、先生の作品が好きだと言ってくれるならどんなことにも耐えられるかもしれない。
「先生、今は明野星のことも作品のことも忘れてください」
「作品のことなんて忘れられない」
「先生のそういうところが本当に好きです」
まるで以前から里見を知っていたような口ぶりだ。
それから葛西は、里見を静かにベッドに寝かせると、そっと指を這わせ脚の間にもっていった。口づけとは違う遠くからの水音に今度は体の底が焼けそうだ。
指を沈めると簡単に咥えこんでしまう。そのまま浅くゆっくりと動く指。もどかしい快感に里見は涙ぐみながら目を閉じた。
こういうとき、何かこちらからもするべきなのだろうが、腰を動かして快楽を逃がすことしかできない。恥ずかしい。
「先生、本当はもっ・・と我慢しようと思ったけど・・」
葛西は途切れ途切れに呟くと、少し里見から離れた。袋を破る音がする。さっきまで行為に夢中になっていたのが急に恥ずかしくなった。
「いい?」
「うるさい」
目元を腕で隠しながら小さく頷くと、一気に熱いものが肉を蹴破りながら入ってきた。
この圧迫感が何よりも気持ちがいい。腰をぶつけられる度に勝手に口が開いて、涎が零れる。
「あっ・・・里見先生・・」
荒息と一緒に名前を呼ばれると、意識が飛びそうになる。性行為は一種の空間づくりだなあと里見は思った。壁も床もないが、そこには確かに空間がある。これは良い作品の材料になりそうだ。なんでこんなことを考えるかな。こんなときに。
「苦しい」
里見は息をあげながらそう言った。
「もうやだ・・」
悲鳴に近い喘ぎ声をだしながら、里見は葛西に縋りついた。葛西は何も言わずに、里見をきつく抱きしめた。その代わり、腰をさらに早く打ち付ける。
一点を集中して突かれ、おもわず里見はそこを葛西の肉に擦り付ける。
あまりの快感に里見の肉は喜んで葛西に絡みついた。吐き出すのを堪えながらも葛西はきっちり引き抜くと、一気に奥まで貫いた。
腰の動きと肉の膨らみ。葛西は苦しそうに汗を浮かせて耐えている。
避妊具をつけてはいるものの、相手の震えと快感が伝わった。
里見はそれを感じた途端に強い快楽の波が襲い、ぎゅっと肉を締め上げて達した。
そのあとすぐに腰を震わせながら葛西が脱力した。

死にたいときの性行為が、一番気持ちがいい。なぜだろうか。防衛本能だろうか。
それをそのまま口に出すと、葛西は誉められたとやけに大袈裟に喜んでいた。
しかしこの男とはもう会うことはないだろう。
里見を再び抱きしめながら葛西は嬉しそうに顔を擦りつけていた。犬みたいで可愛いやつだ。これからこの男は自分の作品を描き続けるだろう。そして里見も自分の作品と向き合う日々が始まる。どうしようもなく孤独感が襲ってきたときは、こうして寂しさを紛らわすために誰かと夜を過ごそう。その誰かが自分の作品を愛してくれていただけで満足だ。
これまで何回か抱かれたことはあったけれど、ここまで名残惜しいのも初めてだ。
「もう会わないほうがいい気がする」
どうしてだろうか。ついこんなことを言ってしまった。
「どうして?」
「なんかさ、君が私に飽きて誰かの作品に寄り添うのがいや」
恥ずかしいことを言っているが、さっきまで何よりも恥ずかしいことになっていたのだ。里見は素直に心情を吐露した。
「君だけじゃない。みんなそう。私は糠喜びと孤独を繰り返していつも泣かされる」
「俺はそんなことしませんよ。俺も泣かされてきたから」
「まあそれが仕事だからね。いまさら泣き言言ってもしょうがない」
くつくつと笑いながら里見は葛西のよく鍛えられた胸板を指でなぞった。
アトリエに篭って作業をしていると参るので、趣味で運動をしているらしい。趣味のレベルをはるかに超えた肉体だ。デッサンモデルでもこんな体はいない。
こういった出来事がいい作品を生んでくれそうだ。
ろくなものを造れないと落ち込んでいても、結局里見は作り続けるしかないのだ。どんなに苦しくとも。どんなに辛くても。
「ねえ、里見先生」
里見の髪を撫でつけながら葛西が切り出した。今までと変わらない甘い声だが、どこか新鮮な響きがあった。胸板をべたべた触りながら生返事をすると、葛西は続けた。
「俺、嬉しく思っていました。先生の心の内が聞けて。すごくうれしかった」
「ほとんど愚痴だよ。あんなの」
「だってあんなに熱く思ってくれていたなんて。こんなことするつもりもなかったのに」
葛西は里見を胸板に押し付けると、再度愛おしそうに額に口づけを落とした。
こいつ一夜限りの相手にもこんなに丁寧に応対するのだろうか。全くご苦労なことだ。里見はなぜかちょっと萎えてしまった。
「先生、俺ずっと先生にお会いしたくて。富岡先生にお願いまでしました」
「え?」
(うう?)
思わず顔をあげそうになった里見を更に力を込めて抱きしめる葛西。
富岡は里見に明野星の個展にいくようにチケットを押し付けた老人である。
「そして、先生がいつも落ち込んだら美術館近くの飲食店で飲んでいるときいて行ってしまいましたよ。そこまでするつもりもなかったけど」
「ん?」
葛西はここまできて、急に声をだして笑いだした。心の底から幸せそうに。
「先生とお話できて本当に幸せでした。初の対談ですね。先生はこれから会うことは無いとおっしゃっていましたが、嫌でも会いますよ」
「は?」
思考が固まってしまっている里見。
「先生は死にたいみたいだけど」
徐々に体の熱が一気に覚めるのを感じた。震えが襲ってくる。これはいけない。風邪を引いたのかもしれない。叫びそうになったが、叫ぶのも躊躇うほど衝撃が走った。
「俺のこと、殺すのが先じゃないのかな?」
暴れそうな里見をそうはさせまいと押さえつける葛西。いっそ殺せと思った。
「ごめん、里見先生」
もう止めてくれ。生き恥、死にたい。
「明野星は俺だよ」
里見はその言葉と一緒に、無言でずるずると掛布団の奥へと沈んでいった。


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