三流絵師 九話 【短編恋愛小説】


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

九話

旅行から戻って少しすると、里見はアトリエに美大生の連中を集めた。そしてしばらく活動を中止する宣言をした。
「明野星を知っていますか?」
里見は静かに言った。別の芸術家の名前を出した里見にみんな動揺を隠せない。
「彼の世界は素晴らしい。彼の世界を世間も認めている。優秀な画家です。だから本当に売れる芸術を、本当にいいものを見つけたいなら彼の絵を見てほしいと思っています」
里見が他の芸術家を褒めたことに、みんな互いの顔を見合わせて驚いていた。
「あの・・里見先生」
「ん?」
普段、ほとんど言葉をかわすことがない美大生が、おそるおそる手を挙げた。怖がっているみたいだ。里見とみんなそんなに歳も変わらないのに、やめてほしい。
「先生は明野さんとお会いしたことはありますか?」
里見はその質問に顔を赤くしながら俯いた。質問した生徒は何かマズいことでも言ったのではないかと「えっ・・え?」と繰り返している。
「交流はあります。富岡先生に言われてから他の芸術家の作品に触れるのも大切だとわかったので」
どういうこと・・?と口々に呟く彼ら。きっと彼らも里見がこのまま何の成果も得ずにいれば、離れていくのだろう。
里見はもう全部やめてしまってもいいと思っていた。明野にいい絵だと言ってもらえた。先生の作品が好きだと言ってもらえた。それだけで十分だ。
先生の絵が好きだと言えたことも、よかった。里見ではその先を見られなかったけれど。
「しばらく寂しくなるよ、里見君」
荷物をまとめていると富岡が入ってきた。アトリエはそのままにしておく。だが、最低限の荷物をもってしばらく芸術から離れたかった。それから距離が空いて、もう戻れなくなったとしてもいいと思えた。
「富岡先生、ありがとうございました。一度は貴方を恨んだけれど」
今までにない生き生きとした顔で里見は晴れやかに富岡に告げた。
「明野君とはずいぶん仲良くなれたようでよかったです」
「まさか先生にばれているとは思わなかったです」
秘密の旅行のことは知っているようで、富岡は楽しそうに笑っている。芸術家には英気を養うことも重要ですからと、特にからかいもせずに言われた。

旅行中、戻りたい時に戻ればいいよと明野は言った。
スケッチブックを渡してから、明野は特に絵に関する話はしてこなかった。
ただ普通の恋人同士みたいに楽しく各地を見て回った。
こんなに席を外していいのかと明野にきくと、しばらく仕事はないから構わないと言った。
「里見と旅行をするために全部終わらせたから」
それから何度も体を重ねた。だってそれ以上、この関係を表す手段がなかったからだ。
それなら付き合ってから、結婚してからという輩がいるが、もうどうにも求めるのを止められなかった。
最後の夜に、明野は里見に腕を貸しながら天井を見つめた。
「里見は俺の子供ができたら生んでくれる?」
「生むよ」
考えることなく里見は答えた。しっかり避妊はしている。不摂生な生活の里見の身体に、命が宿るとは思えないが。それでも産もうと思った。
「でもどうしたの、急に」
「なんか寂しくなってね」
しおらしく明野は続けた。
「生き物としては何か残しておきたいから」
そんなやり取りを思い出して、思わず腹を見てしまった里見だった。

「富岡先生、お子さんいましたっけ?」
「ええ。三人いますよ。みんなもう家をでてしまって寂しいものです」
なんでそんなことを突然?と言われ、里見は慌ててそっぽを向いた。
「可愛いですか?子供は」
「そうですね。大変ですが、いいものですよ。家族は」
里見はどちらかと言えば、子供が苦手な方だった。泣かれるとどうしたらいいかわからなくなるし、自分の幼少期にあまりいい思い出がないからだ。
多分、もし仮に明野の子供ができたとして、喜ばしいというより困惑が勝つだろう。
でも明野の子供なら絶対に嫌いにはなれないのだろう。
「里見君は結婚願望があるのかな?」
その質問に里見は首を振った。富岡は頷きながら見ていたが、急に声を落とした。
「明野君ならおすすめしないな」
「どうしてです?」
「彼、結婚に向くような性格じゃあないから」
「確かに」
床に転がっていたボツの作品は全部まとめて机に置いておいた。いつも使っている絵の具とちょっとした荷物はカバンの中。
しばらくアトリエを開けるので寂しい。それでも心はこんなにも軽い。

「いってきます」
あまりにも重い一歩だったけれど、踏み出してよかった。
もう里見円に戻れなくなるかもしれないけれど。

マンションに戻ってからは適当に荷物をそこら中に投げて、あとは床に寝転んだ。久しぶりに人間が暮らす空間に戻ってきたわけだが、ここからどうしようか。
なんだかどうしようもない虚無感に襲われて里見はカバンを漁った。
新品のスケッチブックが出てくる。それと一緒に明野の作品が顔を出した。鮮やかな絵をみていると胸が苦しくなった。
まだ旅行から帰ってきて少ししかたっていないのに。
明野に会いたくてたまらない。
急いで携帯電話を取り出すが、何だか寂しがり過ぎるのも変な気がして連絡しなかった。旅行先の写真もほとんど撮らなかった。明野のものと言えばこのスケッチブックしかない。
そもそも恋人でもないのに、連絡を寄こしてほしいと思うのも変な話だ。
もう一度抱きしめてほしい。
自分はまだ作るのが怖くてたまらない。
大丈夫だって言って欲しい。
あんなに一緒に寝たのに、思い出すと恥ずかしくてたまらなかった。あそこまで心を開け放った相手は今までいなかったから。
もう一度携帯電話を取り出して思った。
(先生と私は、別に恋人同士じゃない)

明野は暖かくて優しい。それだけだ。
芸術も明野も取り上げられて、どうすればいいのだろう。里見は天井を見つめた。
旅にでた。セックスもたくさんした。嫌なことは何もないはずだ。
芸術がなくなった自分を想像したけどできなかった。デスクワークしている自分なんてどう考えても思い浮かばない。
(でも何とかしないと)
造ってはいけない。だってこんなに苦しいから。首を絞めるより、堅実に生きた方がいい。
才能がないものだとすっぱり諦めよう。夢見た大人が誰でもやってきたことだ。
(そういえば、明野先生は絵を描かない私を見限らなかった)
先生は先生じゃなくなった私にもこれから会ってくれるだろうか。
今頃明野は一人で荒野を冒険している。見果てぬ世界を追い求めて、里見も誰も辿り着かないところから綺麗なものを届けてくれる。
本当に強い人だ。冒険を投げだした自分とは違う。
(本当にこれからどうしよう)
絵画教室でも開こうか。適当にバイトでも始めようか。でも絵画教室なんて開いたら、また冒険がしたいなんて思ってしまう。
バイトの求人を検索してみた。変だ。今まで天才と持てはやされたのに、別の道を探している。それよりこの部屋を人間らしくしないと。もっと日差しを入れよう。もっと食べ物も置かないと。

何かやっていないと気が狂いそうだ。そんな感覚も消え始めていた。
季節は過ぎて、夏に入りかけ。里見は一心不乱に他のことに取り組んでいた。芸術家時代に積み上げて来た貯金もある。蓄えは十分にある。
あれ以来アトリエには戻っていない。ようやく里見にも一般人が板について来た。
仕事は適当にアルバイト。美術館近くの喫茶店で募集があったので入ってみた。
これからは資格を持って、それからもっと勉強して。普通の人みたいに生きよう。
アルバイト先にはたまに美術館の宣伝ポスターが貼られることもあったけれどそれだけだ。
芸術は生活の片隅になりをひそめていた。

ある日喫茶店でサンドウィッチをつくりながら、里見はぼんやりポスターを見ていた。
レンブラント展があるらしい。オランダの版画で有名な芸術家だ。
絵しか描けないと思っていた自分が、こんなに仕事をこなすようになった。人間に擬態してうまく生きているじゃないか。嬉しいものだ。
あれ以来、絵を描くこともなくなったが、里見は何故か明野に貰ったスケッチブックだけは大切に持ち歩いていた。絵画好きの女の子がイラスト集を持ち歩くみたいに大切に。
一人の時は時折それを開いて眺めた。元宿敵の作品だけど、それでも里見に安らぎをくれる。
美しい思い出だ。あんなに頑張ってきたことも青春に似た一頁だと思えば悪くない。
そしてもう一つ。明野がくれた真っ白なスケッチブック。線一本かけていないけれど。なぜか持ち歩いていた。
もう何年も前の回想をしているようで不思議な気持ちだ。
明野はきっと仕事中だろう。先生でもなくなった自分に時間を割かせるわけにはいかない。
でもどうしてか。明野のことを美しい思い出にできないでいた。
スケッチブックの向こうの人なのに。
(まだ悔しがっているのか、どこかで)
できあがったサンドウィッチを渡しながら思った。これで時間になったし、仕事もおわりだ。着替えたら家に帰って、洗濯物を取り込んで。そしてご飯を作ろう。
今日は早めに終わってよかった。なぜか昔のことを考えてしまって集中できない。

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