三流絵師 七話 【短編恋愛小説】


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

七話

恋愛なんてお遊びだ。下らない茶番だ。作りだすことに恋い焦がれて、生身の相手への好意を忘れていた。性欲と情動を混同した遊びだと思っていたのに、焦がれていたものが消えてから気づいた。
人に全身で寄りかかることの心地よさを。これを好きだと言っていいのだろうか。
好きという言葉のなんて曖昧で複雑なことか。

ちょっと旅行に行きたいなんて我儘を明野は簡単に聞いてくれた。
海が見たいななんて言ってみると直ぐに車を走らせて運んでくれた。夏だからか、明野はラフな格好をしている。里見も久しぶりに絵の具の臭いがしない服を着た。
適当に伸ばしきった髪を綺麗にとかして、ワンピースを着てみた。
足の指の間に砂を挟んで離した。

なんだか恋人の真似事をしているけれど、明野が好きかと言われると違う気がする。
普通の女性のように誰かを愛せたらいいのに。
「私、恋愛できないかもしれない」
波を目で追いながらつぶやくと、明野が隣に腰かけた。
「知っているよ。俺もそうだから」
潮風に靡いている里見の髪をなんとなく明野が捕まえた。
「じゃあ私が好きだって言うのはなに?」
「里見さんとは恋愛できそう」

何となく手に取った砂を遠くに投げた。同時に大きくため息をつく。
「ごめん、先生」
「謝ることは何もない」
「私が先生を利用しているから。芸術から離れるために」
「俺は里見さんと一緒に出かけられて嬉しいから、大丈夫」
海の青を見ていると、どうしてこんなにも体の底から湧き上がるものがあるのか。大きな何かを感じて体が疼いて仕方ない。これを思いっきり描けたら。
ぼんやりと青を見つめると、明野がぐいっと里見の腕を引いた。
「今は何も思い出さないようにしようね」
突然耳をふさがれ、口の中に舌をねじ込まれる。
波の音が消え、舌を絡める水音が響く。普通の女性なら腰から砕けそうな舌使いだ。自分は違うと強気にこっちからも舌をねじ込んでやった。すると耳から手を離され、一気に潮騒が流れ込んで来た。
「もしかして先生、結構遊ぶ人?」
「どうだったかな。殴られたことならあるけど」
「今までどんな人とお付き合いを?」
いろいろ思い出したのか明野はちょっと顔をしかめて頬を触った。
「付き合ったという自覚はなかったな。だからか助走つけて殴られた。爪の長い子に」
「それは痛い」
噴き出した里見は、今度は海ではなく明野の首元を見つめた。
「先生を独り占めしたい人もいそうなのに、私が取ったら怒られますね」
「里見さんのことを独占したら、怒られるかな」
それはないと里見は首を振った。
「私はもう、振られたようなものだから。あんなに好きだったのに参ったな」
創作意欲に振られた。いや、正しくは恋を諦めたようなものか。いずれにせよ、もう関わりたくないと思ってしまったのは確か。
涙が出なかった。明野は里見を守るように抱き寄せるとため息をついた。
「酷いな。里見さんをこんな風にするなんて」
「酷いよね。だから慰めてよ」
何でこんな言葉が口から零れるのか。気持ち悪かった。
絵の具の臭いが全くしないワンピース。綺麗すぎる髪。違う何かをみている。
誰だろう、この女は。気持ち悪い。恋愛みたいなやり取りを、海の前なんかで繰り広げている。

「捨てられるのが怖くてこっちから捨ててやった。惨めでしょ」
「忘れればいいよ。俺と」
本当に誰だろう。この高鳴りが愛おしいという気持ちなのだろうか。これは何だ。
再び唇を寄せて来た明野を片手で軽く制す。
「キスが好きだね、先生は」
「里見さんとのキスが好きなだけだよ」
何でこんな時も色が見えるのだろう。
明野の顔を覗き込むと、真剣に見つめ返す眼差しがあった。黒い瞳を見つめながら今度は里見から触れるだけのキスをした。
一瞬目を見開くと、明野は弱ってしまって顔を覆った。うっ、と呟く。
「里見さん、そんなことしちゃダメだよ」
「どうして?」
「どうにかしたくなっちゃうでしょ、俺が」
誰だ、この女。その言葉をずっと心の中で繰り返していたからだろうか。思わず里見は立ち上がってしまった。ワンピースで隠れていたふくらはぎに再び潮風が当たる。
「どうしてこんなことに付き合ってくれるのですか?先生は」
撮影が終わった役者かってくらい力が抜けた。明野は頭を掻きながら立ち上がった。
「里見さんが好きなのは本当です」
また強い風が吹く。
「どうしてそんなに好きなの?」
「どうしてかな」
余裕たっぷりにまた明野が笑う。憎たらしいくらいに優しい笑みにまた、力が抜けた。
深い色が好きだけど、こういう時はどうしても赤だ。
砂を掃うと、明野は里見の肩を優しく叩いた。
「戻ろうか。まだ旅行は始まったばかりだし」
「そうだね」

今度は旅館に泊まることにした。ここは都内からそんなに離れていないが、自然が多くてくつろげる場所だ。中居さんはこんな若い人は滅多にこないと喜んでいた。
いつもホテルを利用している里見に、非日常を味わってほしいと明野が配慮したのだろう。出来るだけ忘れられるように。離れられるように。こんなに気が利く男なのに恋人がいないのが不思議だ。旅館の周りには山と海と。特に何もない。でもそれがよかった。うっかり画材の匂いなんてする場所を通ったら、明野から目を離してしまうかもしれない。
「いいお湯でした」
里見が髪を拭きながら出てくると、滑るように後ろから抱きしめる明野。
「ちょっと、まだ髪が濡れて」
「いいよ。これくらい」
明野の髪は長かった。こんな仕事していると切るのも面倒で、それに髪型に規定がないからついつい伸ばしてしまうと言っていた。それが異様に伸びた柳の枝みたいで、すっぽりと後ろから里見を覆い隠してしまう。
「ごめん。でも、早く里見さんを抱きたくて」
「そういうこといいます?」
まだ濡れている髪を撫でると、くすぐったそうに明野が頬を寄せる。
今の人は。里見は思った。もしかして本当は暇なのではないか。生きていても特にやることもなくて暇を持て余して。暇なのは苦しいから。余計なことを考えるから。とにかく仕事したり趣味に走ったりして時間を食べまくるけれど。
こうして人のぬくもりに触れると、一番暇なのを忘れる。辛いことを忘れる。
きっとみんなしっかり地面に立てるのは、多分この世がはっきり見えていないから。
思い返せば生まれた時から。里見は濁流のような現実が怖くて、逃げ回って絵を描いた。でもそこからも逃げた。
こうして気を紛らわせてくれるのが、死ぬほど憎かった男なのは偶然だろう。

「ねえ、先生」
旅館の浴衣は簡単に前が開ける。邪魔そうに帯を取ると、明野は艶っぽく「うん?」と聞いた。
「私、好きです。先生の身体」
肌に指を沈められると、そこから体に熱が広がる。里見は震える手で左胸に置かれた腕をやんわり包み込んだ。背中から腰に掛けて震えが走り、内臓を揺らしていく。
「先生のことは、本当は嫌いだったけど」
「今は?好きでいてくれる?」
どうしてこんなに余裕があるのだろうこの人は。体をくねらせている里見とは違い、意地悪く明野は見つめてくる。
この気持ちを好きだと言ってしまっていいのだろうか。創作から逃れるために明野を利用しているだけなのに。
でも、こんなに求められることがなかったのも事実だ。そもそも自分には真剣に交際したという過去がない。一時の熱何て昇華すればそれでいいものだと思っていた。

「先生が好き」
生まれて初めてちゃんと口にしたであろう愛の言葉は、思ったよりずっと軽く聞こえた。
なんだ、こんなものかと拍子抜けしたと同時に、酷い罪悪感が胸を覆った。
明野は一瞬、体を強張らせると心底辛そうにうつむいた。
「今日さ」
だがすぐに顔を上げると、乱暴に里見の足を持ち上げた。とっさの動きに反応できず、情けない悲鳴をあげていると、太ももの付け根に口づけを落とされる。
「寝ないでね、里見さん。何度も起こすから。うっかり俺を見失わないで」
自分の足の間から表情を伺うと、ぞっとするほど冷たい明野の顔があった。自分はとても酷いことを言ってしまった。作ることから逃げたくて、手を伸ばしたら明野がいたから。それに捕まって。明野なら自分を助けてくれると思った。だってあんなに自分の作品を好きだと言ってくれたじゃないか。
「怒らないで」
あまりに怖くて里見は泣きそうな声で懇願した。それに返事はせずに、明野は里見の下着を一気に下すと顔を埋める。直ぐに熱い舌が入ってきて、里見はのけぞった。室内に響き渡る水音から逃げたくて体が跳ねた。
シーツを掴んで力を込めたとたんに舌が抜かれた。
熱っぽく明野を見ると、無表情のまま彼は浴衣を脱ぎ捨てた。
「先生」
体をひっくり返された。うっ、と快感を噛みしめるような明野の声が首元に響いた。思わず逃れようと手を伸ばすがそれを上から捕まれ、そのまま揺さぶられる。
今まで感じたことのない高濃度の快楽に里見は甘い声を上げながらも好き放題にされるしかなかった。
「先生、ごめんなさい・・私が悪いから、やめてください」
そりゃあ怒るか。自分が心にもないのに好きだなんていったから。
「里見さんはさ」
腰を突き入れながら、明野がしばらくぶりに口を開いた。
「もう、作らなくていいわけだ」
その言葉に全身が総毛だった。快感からくるものではない。そう言われると苦しくなった。
「だったら、早く忘れてよ。俺に触られると気持ちいいでしょ?」
「忘れる・・忘れるから」
急に動きを止められ、里見は思わず腰を揺らした。今度は自分から誘う。目の前の色が反転しそうだ。あまりの刺激に勝手に涙が流れる。
涙の浮かんだ目が合うと、明野は再び腰を送り込んだ。
「早くちょうだい・・先生」
縋りついて懇願すると、明野は満足げに目を細めた。でもどこか怖い顔だった。
「今日はずっと気持ち良くしてあげるよ。ね」
意地悪く、でもとんでもなく優しい声で。明野は里見を抱きしめた。
腰を叩き込まれて、殺されるかと思うくらいに内臓をぶたれる。甘さと痛みと眩暈の中で明野を見上げると、キスをくれた。
「気持ちいい?里見さん」
「先生・・大好き」
譫言のように繰り返していると、明野は再び腰を突き入れるのだった。何度も激しくゆすられ、囁かれて全身を舐められているうちに、里見の意識が乱れていく。
濁った意識の中で明野を見ると、恋人みたいに抱きしめられた。
「好きだよ、里見」
恋ってこんな感じなのだろうか。全身がふわふわする。
意識を手放しかけると、明野の腕が里見を抱きとめた。最後にうっすら目を開けると、苦しそうな彼の瞳と目が合った。

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