三流絵師 五話 【短編恋愛小説】


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

五話

今度の万博のために行われたオーディション。それに早々に作品を渡すと、彼はゆっくり自宅へ帰っていた。これから趣味の料理でもしようかと歩いていた。
葛西彩人は本名だ。だがどうしても里見には彩人と呼ばれたかった。

明けの明星なんか大したあだ名でなく、彩人と呼ばれたかった。

明野は酷く気分がよかった。おそらく万博に里見も絡んでいるだろうから、邪魔はできない。
できれば今すぐ駆けつけて抱きしめたいが、それだと失礼だろう。
何せ自分を殺したいと思っている人間なのだから。
(何で女かな、先生は)
どうしようもないことを明野は心の中で呟いた。
自分のせいでしくしく泣いている彼女をどうしても無視できなかった。
あまりにいじらしくて、つい体の関係を持ってしまった。里見は経験がないわけではないだろうが、やけに反応が初々しくて可愛い。
きっと里見はこちらが余裕たっぷりに可愛がったのもわかっているのだろう。
自分に簡単に体を捧げる女を明野はわかりやすく軽蔑していた。多分男はみんなそうだろう。でも里見は何だかそんな女たちとは違った。違うって言うのは特別に可愛いとか、女神に見えるとか、そう言ったことではない。里見はきっと出来る。最後まで自分の世界を通せる人間だ。明野はそう思うと同時に瞳に暗い影を落とした。

里見の作品を見た時、自分とは違う激しい煉獄に目を奪われた。同時に好みがわかれる作品だなと思った。
尊敬する芸術家を丸め込んで宿に連れ込むなんて、自分はなんと失礼なことをしてしまったのか。里見が風呂で暴れている間に、悶々と後悔が押し寄せたが、風呂上がりの里見を見ると遠慮は吹き飛んでしまった。
自分の手で乱れる里見が、涙を流しながらしがみ付いてくる。死にたいと嘆いている彼女を抱きしめていると、心の芯まで締め上げられる気がした。
(俺、そんなに若くないのに)
明野はそっと下半身を抑えると、むっと唸った。

二十代までは性欲に支配される日々だったが、最近ようやくいろいろとコントロールできるようになった。だからこんな風に夢中になるのも久しぶりだ。
(また会いたい)
部屋は綺麗に片づけられているが、自分のものでしかない空間は、あまり気持ちのいいものではなかった。寂しさを紛らわせるために明野は生活音を鳴らした。

里見へ対する感情は恋愛的な意味があるのだろうか。
(先生の描く作品が好きだ。その世界へ足を入れるのが好き。先生が俺のことが嫌いなところとか、全部好き)
何となく明野好みの身体だったから、あんななし崩しに関係を持ったのか。違う。多分己を刻みつけたかったからだと今ならわかる。
明野は里見に希望を見ていた。大衆向けに自分を無理に書き換えた者とは違う。
里見にあの時、スランプ気味でと言った。本当のことだ。
そこまで考えてふと思ったことがある。
(先生は誰かに抱かれたことがあるな)
そう思ったとたんに黒い感情が巡るのを感じる。里見が持つ世界観や自分には生み出せない数々。それもあるが里見の上ずった声とか、冷たい瞳とか。
あれを抱いた男がいるのか。ついシンクを殴りそうになったが、そんなことは大人だからしない。それにこれを独占欲や嫉妬というのなら早すぎる。
(先生の世界を知るのが俺だけだったらいいのに。先生は死んだらダメだ。先生は俺を殺したいと思ってくれている人だから)
「明野星を殺したい」
酒を飲みながら愚痴を零されたあの時。里見は明確にそう言った。人から確かな殺意を向けられたことはなかったから、つい目を丸くした。
殺したいと言われているのに、明野はゾクゾクとした高揚感を覚えた。自分だけが見ていると思っていた人物が、こちらをしっかり見ていてくれたのだ。
愛しているとか、尊敬しているとか。きっと人が生きていくのに必要なのはそんな言葉だけではないはずだ。
そう思ってくれたってことは、自分の作品を見てくれたのだろう。そして動かされたはずだ。
心が。嬉しい。嬉しいが、結局里見は明野から遠く離れたところにいる。
結局、彼は一人。
(今度、先生をどこかへ攫おう)
リズミカルに食器を洗いながら、明野は着々ととんでもない計画を立てた。

実は里見のアトリエの場所を知っている。ストーカーかと言われるかもしれないが、どうしても会いたかったからだ。少し前に富岡に挨拶に行ったついでに、こっそり聞いておいた。富岡なら顔が広いから里見のことを知っていると思った。富岡は特に個人情報だとかプライバシーがどうとか言わずに、里見のアトリエを教えてくれた。
「里見君なら、私の弟子だよ」
里見の名前を出すと、期待以上の返事がきた。
なんと富岡は里見と顔見知りで、しかも芸大時代からの馴染みと聞く。明野は胸の高まりを抑えられなかった。
「君はあの子の作品が好きなのか。素晴らしいことだ」
里見の画集は全て買い、里見のことならなんでも調べた。何度も会いたいと願ったが、里見が自分の世界観を壊さないために、他の芸術家と顔を合わせないと聞いた。
「あの子はとても苦しんでいてね」
富岡は悲しそうにつぶやいた。
「あの子にとって「造る」というのは手に余るようだ。孤独にあえぎながら、今も当てもない旅を続けている」
「どうして苦しむのですか。私は里見先生の作品をここまで尊敬しているのに」
「原因は君にもあるよ。明野君」
なるほどと、明野は呟いた。里見ほどの芸術家でも根は自分と変わらないのだと。
「あの子は毎年、コンクールで君に負けるとアトリエを壊す。もう恒例行事でね」
どんな大男だろうと明野は思った。
「でもあの子は君に勝てたとしても、やはり苦しむだろう。あの子は、描く作品の通り激しくない。儚すぎてすぐに消えてしまいそうだ」
次に色白の不健康そうな男が浮かんだ。それならば是非会いたいと明野は言った。出会い頭に殴られないなら、会って大丈夫だろう。
「彼女が君を見た途端、その場が殺人現場になりそうだね」
口振りからして、面白そうに言ってはいるが、冗談ではないのだろう。
「だから、あの子に会うなら正体がバレないようにするのが一番いいよ。今度、君の個展に出向くように私が言っておくから。君の作品を見たら・・おそらくいつものレストランで呑み潰れてしまうと思うから、声をかけるといい」
そうして里見行きつけのレストランへ足を運んだ明野だったが、そこで酔っぱらった女性に出会う。絵の具だらけの彼女が印象的で声をかけると、それが里見だったというわけだ。
運命の悪戯というより、明野の悪戯に運命が便乗した感じだ。
富岡が只管「あの子」と言っていたので会うまで性別すらわからなかった。
最後、富岡は明野に「あの子を助けてあげられないか」と呟いた。

それからしばらく、芸術雑誌の取材や美大の講演会などをこなしているうちに、すっかり二週間経ってしまった。
とうとう我慢できなくなって明野は部屋で意味もなく歩き回っていた。
いきなり部屋に押しかけたら、里見は怒るだろうか。
オーディションはもう終了しているし、少し落ち着いたころだろう。
一か月前の可愛らしい寝顔を思い出すと、居ても立っても居られなくなり、明野は部屋を飛び出した。美術館近くにあるというアトリエに向かった。
三十を過ぎた男が恋人でもない相手に会うのにここまで胸を躍らせるとは。

アトリエの呼び鈴を鳴らしても何の反応もなかった。
扉を押してみると難なく開いた。どこか事件の匂いがする状況に明野は困惑しながら中へ入る。
脱ぎ散らかされた靴があるので、いることには間違いないが。
「里見先生!」
思わず叫んだ。部屋はゴミで荒れ放題になっており、脚の踏み場もないほどデッサンが転がっている。
リビングに入ると、画材に囲まれた状態で倒れている里見が見えた。
「先生!?」
駆け寄って抱き上げると、里見はうっすら目を開けた。数日眠っていないのか、目の下の隈に激しい疲労の跡が見える。
里見は薄目のままぐったりと体重を明野に預けた。久方ぶりの里見の体温にこのまま抱きしめてしまいたい衝動を抑える。
「富岡先生・・?」
里見は弱弱しく微笑むと、再び意識を手放した。
床には必死で作品と向き合った戦闘痕が残されている。この作品たちが里見を追い込んで蝕んでいたのだ。
里見を抱きかかえると小枝のように軽かった。アトリエには台所も冷蔵庫もなかった。ただ夥しい数の作品と画材が散在しているのみだ。
明野は里見を持ち上げて、車まで運んだ。本当に車で来てよかったと思う。
里見は死んだように動かなかった。
自分が行動せずとも、富岡かその他の関係者がなんとかするとは思うが、見つけたのが自分でよかった。里見の世話が焼けることが楽しくて明野は静かに車を走らせた。
里見の自宅まで送るのもいいが、生活感がないような気がしてならない。それに里見の荷物を漁って住所を知るのはよくないような気がした。
明野は自宅まで行くと、里見を再び抱き上げる。
部屋に運ぶと、無駄に大きいベッドの上に寝かせた。寝相が悪いのが悩みで、大きめのベッドを買ったが大きすぎて持て余していた。今まさに役に立ちそうだ。
奇跡のように里見が起きないので、今のうちに食べやすいものでも作ろうかと明野は台所に消えた。

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