三流絵師 六話 【短編恋愛小説】


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

六話

里見が目を覚ますと、知らない天井だった。
起き上がろうとして骨が軋んだ。神経をすり減らして描き上げた後は決まって全身が痛む。
右手が鉛のように重い。熱でもあるのか。
確か、アトリエで気絶する前は。体を起こそうにも、うまく体が動かない。
全力で挑んだ作品は、先生の作品が好きだという言葉だけでできていた。それを誰がくれたかなど関係なく、強い力を持っていた。
(情けないな)

全てをかけたオーディション、里見のもとに話が来ることはなかった。
里見は通知を待つこともしなかった。作品を作り上げただけでよかった。次もあるだろう。頑張ろう。そんな敗者の言葉が巡ったとき、里見は不意に涙が流れるのを感じた。
全力で挑めてよかったなんてどこのバカのセリフだろう。
我ながらよく泣く。里見はアトリエで号泣し続けた。
泣いて叫んでも、誰も見てくれない。構って欲しい子供みたいだ。声をあげて泣きながら、段々、涙も声も枯れていった。
(私の作品はどこまで私から奪うのだろう)
精神も気力も何もかも作品が吸い取っていく。
そして思い出したのだ。自分の作品を好きだと言ったのが明野だと。明野の温もりを思い出すと、自然に涙が止まった。途端に悔しさが溢れたが、それでも心が落ち着いた。
明野もオーディションを受けているに違いない。明野なら必ず結果を残す。

「やめよう」
ふとそんな言葉がでた。口にするととても簡単だった。
生まれて初めて里見は心の底から「やめたい」と思った。そう思うと大きな何かが自分から出て行くのを感じた。
(今から普通の世界に戻って、就職するならどうなるだろう)
現実的なことを考えると同時に力が抜けた。
今まで考えたこともなかった。何かが燃え尽きてしまったのだ。何だ、これは。
自分を構成している芸術を拒絶したのだ。骨を抜かれて里見はその場に崩れ落ちた。
床に落ちている、届けられなかった作品もただのゴミにしか見えない。
どうしてこんなもののために自分は苦しんで来たのだ。
「やめよう」と思うと何も感じなくなった。暴れることも叫ぶこともなくなった。
(こんなに穏やかだ)
なんの騒音のない穏やかな世界。呪いから解放された。生まれて初めてかってくらい脱力した。そこから里見は意識を手放した。

そういった経緯の後だった。そのせいか里見は晴れやかな気分なのだ。
全身は痛むが、それでも苦しみから解放されたばかりだ。
「それよりここは・・」
部屋を見渡してみる。やたら上等なベッドにこの香水の匂い。この匂いを自分は知っている。
(明野?)
香水で相手がわかるとは。
芸術家から離れ、いつもより落ち着いているとはいえ、明野の家にいるとなると話は別だ。赤くなったり青くなったりしながら頭を抱える。
何故自分が明野の家にいるのかという疑問より。あんなことがあったのに、合わせる顔がない。目が覚めた場所がベッドということもあり、頬の火照りが収まってくれない。

「大丈夫ですか?先生」
ドアの開閉の音にも気づかず、あたふたしていると。いつのまにか現れた明野が、心配そうにこちらを見ていた。ラフな黒いタイトシャツを着た明野の手には、マグカップが握られている。
振り向いただけなのに、体が悲鳴をあげ、里見は肩を押さえた。
「ずっと緊張状態だったから、全身が痛むみたいですね」
「どうして、私・・あなたの家にいるんですか?」
「先生がアトリエの床に落ちていたので、まことに勝手ながら運搬しました」
初めて会った時と同じ丁寧な口調の明野。長い髪の彼を見ていると、なんだか遠い人のようだ。もう燃え上がるような敵対心を感じない。なんだ、この感覚は。
古くからの友人を見ているかのようだ。
「明野先生」
思わず「先生」と呼んでしまった。多分自分は、かなり落ち着いた雰囲気で話せている。

「私、絵を描くのをやめようと思います」
ああ、言ってしまった。何でこんなことをこいつに言っているのだろう。悔しいのと寂しいので、里見は唇をかみしめた。
あんなに止めたくなかったのに。一番の宿敵にこんなことを漏らしている。
どうして自分を運んだとか。疲労困憊なところを助けてもらったお礼とか。
そんな言葉より先に口をついて出たのは弱音だった。
明野はあの時と同じように遠慮のない所作でベッドに深く腰かけてきた。
恥ずかしさより、自分から遠く離れた芸術家先生を見るのがつらくて、里見は下を向く。
明野の顔を見るのが怖かった。
恐々マグカップを受け取ると、優しい匂いのするスープだった。
情けないことに泣きそうだ。
「里見先生」
突然髪を撫でられ、里見の身体は強張った。
「もう「先生」は止めてください」
明野はしばらく無言で里見を見つめていた。
「ちょっとどこか遠くに行きたくて。誰の目も届かないような、そんな場所に行きたいです」
里見は心の内を吐露した。吐き出すとあふれ出して止まらない。泣きそうな里見の肩をそっと明野が抱いている。温かい手だった。
「自分の気持ちとか、今までの苦労とか。全部供養するために旅がしたいです」
手元のスープを見つめ続けていると蒸気が顔に当たって熱い。
「そういう贅沢が終わったら、あとは人生が終わるのを待ちたい。なにも考えたくありません。何もかも投げ捨てて、自分が自分だって言うのも忘れて。そうしたら死にたいなんて言わなくなるでしょう」
どうしてこんなことを、この男に話しているのだろう。どうしてこんな男に頼っているのだろう。明野に対する苛立ちも、悔しさも何もかも飛んで。
ただ期待してくれた相手に謝りたくなった。
「ごめんなさい。明野先生。あなたが好きだと言ってくれた作品はもう生まれませんよ」
「里見先生、大丈夫ですよ。そんな」
「ずっと独りで当てもなく苦しむくらいなら、初めから何もしない方がよかった。静かなのも、悪くありませんね」
ここまで言い切ると、里見は初めて明野を見つめた。明野は困惑しきった表情でじっと里見を見ている。何か言いたげに口元が動いた。だがその言葉は出てこない。
代わりに。
「里見さん」と名前を呼ばれた。
「里見さん、先ほど旅がしたいと言っていましたよね」
意外にも、彼は旅の部分を拾った。
「だったら遠くへ行きませんか。俺と一緒に」
「先生と?」
少し前の里見ならふざけるなと吠えていたところだが、里見は遠くを見るような目のまま「いいですね」と返した。
断られると思っていたのか、明野は一瞬止まると、嬉しそうに笑った。
「行きたいところはありますか?」
「遠くに。国内がいいですね」
素直な里見に明野はぐっと胸が締め付けられるのを感じた。
明野はしばらく里見を黙って見つめていたが、ふと口を開いた。
「里見さんは、俺のことまだ嫌い?」
予想外の質問に里見も黙りそうになった。
「嫌いです」
長い沈黙の後これだけ言うと、里見は少しだけ冷えたスープを一気に飲み干した。

目の前に作品と向き合い続ける男がいる。自分にできないことを平然とやってのける男が。
嫉妬や憎悪はあるが、立派な人だとも感じた。
そう思った途端、また頬に涙が伝うのを感じた。我ながらよく泣く。別れの涙だろうか。
「里見さんは可愛いね」
「もう、芸術家じゃないのに?」
変な質問をしてしまった。なんだ、それ。芸術家だったら可愛いのか。目を逸らして俯いた。
今まで余裕たっぷりに見えた明野もなんだか照れたように目を泳がせていた。
「そういえば、先生に可愛いって言われたのは初めて」
「そうかも」
ここで小さく二人は笑った。


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