三流絵師 十話 【短編恋愛小説】


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

十話

軽く喫茶店の人間に挨拶を済ませると、ちょうど着信が入った。相手は富岡だった。
「珍しいな。富岡先生」
アトリエから離れて以来、富岡とは連絡を取ることもなかった。彼は里見が芸術から本当に離れることになるかもしれないと言っても特に怒らなかった。また戻っておいでと言っていた。富岡から連絡ということは、何かの依頼だろうか。いや、完全に芸術と手を切りつつある里見にそんなことはしないはずだ。
「もしもし、先生。お久しぶりです」
「ああ。里見君。すまないね。いきなり連絡して」
富岡は、数カ月前と変わらない落ち着きで言った。
「里見君、帝都大学病院に来てくれるか。時間に余裕があれば」
病院という言葉に思わず心臓が跳ねあがる。帝都大学病院なら、ここからそこまで距離はない。
「病院って・・どういうことですか」
「明野君がね、運ばれてね。ほら、君とは知らない仲でもないみたいだし。彼、特に親族もいないから」
そんなもの知らない。明野に親族がいないなんて。

「は?」
急に真っ暗闇に放り込まれた。スケッチブックは確かに里見の手元にある。どうして、嘘だろう。里見さんの絵が好きだと言ってくれたのに。
どういう状態かもわからなかったが、嫌な汗が全身を伝った。よくないことが起きたと虫の知らせが大量に飛んで、自分の中へ入ってくる。

「彼は君にあまり彼自身のことを話していないようだね。とにかく行ってあげてくれ」
「葛西彩人でいいですか!!名前、葛西彩人!」
思わず声を荒げると、耳元で富岡がそうだね、と呟いた。
「いまから行きます」
心臓がうるさい。明野のことを自分は何も知らない。親族がいないとはどういうことだろう。どうして自分に興味を持ったのだろう。どうしてこんな半端ものと一緒にいてくれたのだろう。気づけば里見は走り出していた。明野からもらったスケッチブックを持ったまま、走りだしていた。
「明野先生」
どうしてこんなに必死なのだろう。友達でも恋人でもないのに。渋滞している車を追い抜いて、着の身着のまま里見は走った。病院は美術館近くの丘の上にある。そんなに遠くない。
(里見が好きだよ)
そんな言葉を思い出すと苦しい。どうしてこんなに好きなのにもっと好きだって言わなかったのだろう。もっと先生の作品が好きだと言えばよかった。もっと抱きしめて貰えばよかった。そうしたらこんなに苦しくないのに。
多分この機会を逃したら、明野を捕まえられない気がした。絶対に会わないといけない。

だが。
丘に差し掛かったところで里見の足は止まった。
綺麗だった。日が傾きかけて空の青と赤と形容しがたい朱色の太陽が。あまりに眩しくて、それでも里見は空を見た。
空にはカラスが数羽不規則に飛んでいる。背中に溶けたような夕闇が。そして眼下には太陽に置いていかれる町が広がっている。

気づけば里見はスケッチブックを取り出していた。ポケットには幸いペンが入っている。
街が燃えている。こんな状況なのに自分はなぜ急いでいたのだろう。
瞳に反射した赤を里見は紙から削りだした。浮かび上がってきた街に高揚を隠せない。
風が髪を撫で上げていく。里見は芝生になった場所に腰かけた。
きっとあの空もあの太陽も、この時だけのもの。
黒が赤を追いかけて走り込んでくる。里見は壮大な追いかけっこを必死で、ペンで追う。
捕まえた風景をもっと忠実に再現するために。もっと。もっと。

太陽がついに隠れそうになったとき、里見はしばらくぶりに息をついた。
もう一度太陽を見ようとしたとき、黒い影に気づく。
さっきまで太陽を見ていた場所に大きな背中があった。逆光でよく見えない。それが誰か気づくと、あっと里見は叫んで背中に走り寄った。
見慣れた黒すぎる恰好だった。そして長い髪。ずっと追いかけてきた背中がそこにあった。
「明野先生!」
呼ぶと、背中が振り返って気まずそうに笑った。
「里見先生がなかなか来ないから、俺から来ちゃいました」
「ごめんなさい・・私、先生に会いに来たのに。こんなところで止まって」
明野は首を振った。
「いいものを見つけたら、すぐに描かないと。それは俺もそうだ。そういう風になっている」
「先生が大切じゃないとか・・そういうわけじゃありません」
「それも知っているよ」
明野は微笑んで里見を抱きしめた。悲しかった。
夕陽の催眠がとけて、里見は明野を強く抱きしめ返した。
「絵を描いていたの?」
「うん・・」
明野は里見のスケッチブックをじっくりと見た。明野に直接作品を見せる機会なんてなかったから、里見は頬が赤くなるのを感じた。
「いい絵だ。里見円の絵だ。俺が好きな絵だよ」
「先生がくれたスケッチブックに描きました。遅くなってごめんなさい」
明野は噛みしめるように絵を見つめると、嬉しそうに目を細めた。
「君はもう逃げられない。これでわかっただろう。どんなに苦しくても、それがどんな道でも。それは君の呼吸と同じだ」
「うん」
「君が息をしている姿が、俺はたまらなく愛おしい。だからもっと見に行こう。君しか見えない世界を」
それを聞くと、里見はボロボロ涙を流した。
「私は最低です。先生より、こんなものをとったから」
先生に会いたいと願ったのは自分なのに、止まってしまった。やっぱり自分が人を好きになるなんて無理な話だったのか。悔しくて悲しくて涙が止まらなかった。
世間から才能がないとなじられた。お前には無理だとそっぽを向かれて逃げた。
こんなものにしがみつくことしかできない。
「それでもそのこんなものが、君を立たせている。素晴らしいことだ」
「だけど、誰も見てくれない。私はずっと独りで。もう苦しいのは嫌なのに」
里見は明野に抱きしめられる。腕を回す。激しく求めて、爪を立てたこの背中に。
「本当に嫌?」
覗き込まれてそう尋ねられ、里見は首を振った。
「私はもう、溺れているから」
「君の隣は埋まっていたってことだ。そいつに乱されている君がどうしようもなく好きだった。それでも、恋人のふりができて俺は嬉しかったよ」
呪いをこの身に受けたまま生きている。弄ばれて、いずれ捨てられるかもしれないのに。求められるままに描いて。全身で愛を表現して。振り向いてくれないのに、たまに優しい。
だからたまらなくなる。
「酷いな、そいつは。君を不幸にするぞ」
それでもいい。奪われるだけでいい。もう根こそぎ奪われて、腸をひっくり返して、何度でも生もうじゃないか。
そう思える自分はきっと気が狂っている。

「全部わかっていたんだね。先生は」
酷いなとぼやくと、俺も同じだからと明野は言った。
夕陽はそろそろ沈みかけていた。段々辺りが暗くなって、明野の姿も薄くなっていく。
「里見先生。もう一度、俺を殺したいって思ってくれる?」
「うん。先生を殺したいよ」
罵倒なはずなのに、明野は柔らかく微笑んだ。
里見が目指した荒野の先に明野がいた。明野は相変わらず前を向いている。それを再び追いかけだした。
「嬉しいよ、里見先生。俺は恋人も友人もいなかったけど」
明野は微笑みながら続けた。
「君を選んでよかった」
それから夕闇は明野を攫って静かに消えた。太陽が沈み切って風が吹いた。草の音がする。冷たい空気が立ち込めだした。
里見はスケッチブックを抱きしめながら号泣した。

自分はちゃんと恋ができていたのだろうか。
自分は明野を愛しているのだろうか。
その答えはどれもわからない。
だが一つだけ。無様に谷底へ身を投げる自分の姿がわかった。

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