ヒウマノイドヒウマニズム

 ボカロpツミキによる楽曲、“ヒウマノイドヒウマニズム”についての感想です。個人の解釈です。

主題

 ツミキのアルバム『SAKKAC CRAFT』に収録されているスイサイ/アンブレラ/ロクガツ/ドライフラワを除いた8作品は根底に哲学的問いがあるのは広く知られていると思うが、本作では題名でストレートに書いてある。つまり“人間擬きが人間になる”ことが主題。

 主人公(楽曲の主観にいる人物(?))はすなわち人元擬きであるが、ここではロボットや非人間であるという意味ではなく、自己同一性を喪失した状態にある自分を人間擬きと揶揄していると解釈できる。

主人公が見ている世界

 楽曲からは歌詞音響共に軽薄で他人事のような印象を受ける(主人公の視点で語られているのにも関わらず)。社会(自由という怪物の腹中)でのストレスから自分が乖離して、人形を操るようにして社会の中で擬態しながら生きている主人公が、その生活でさらに苦しんでいく。また周囲の行動をどこか達観した目で観察しており、それが軽薄さを加速させている。

 サビ前でこのままでいいのかと自問自答しつつ、消失(精神的?)に怯えている主人公。サビではついに自分の行動に意味が見出せなくなり、自分が存在しているか疑わしくなり、第三者に決定を下してもらおうとする(引金を弾く迄幻→死ぬまで生きているか分からない→(存在の証明のために)衝き陥してくれ)。

制御が効かなくなる体

 2番では生活の些細な事(呼吸の音、カトラリーの音)が苦痛となり脳が悲鳴を上げる(間奏で不愉快な音が流れる)。

そして......

 ラスサビでは体を支配している人格が完全に乖離して自分が“偽物”になってしまう。虚だった器に嘘が居付き生命の如く振る舞っている。

 いよいよ自分の存在が危うくなった主人公は飛び降りて(“偽物”に衝き陥されて)存在の証明をする。命が尽きるまでの暗中の中、激しさを増す心臓の音を聞きながら「其れでも僕等は美しい」と結論を出し、最後には“神様”に全てを投げて楽曲は終わる。

感想

 今作は最後まで他人任せな主人公が自己を喪失し、最終的に自死によって存在証明、アイデンティティを確立した。
 強すぎる自我を持つ余り世界を疑い、実体が無いことを悟って自身の存在証明も出来ないまま自死したリコレクションエンドロウルとは真逆とも言えるが、“偽物”に取って代わられているところは共通している(トオトロジイダウトフル、アノニマスファンフアレにも似た節がある)。

完全に余談だが間奏から終わりまでの作りはノーメロのタッチと似ている。


 ツミキが世に楽曲を放ってからもうすぐ5年。今は新しい形で活動している氏だが、今一度昔の楽曲を振り返ってみてはどうだろうか。流行りのポップな音楽とは異なる、破滅的で、懐疑的で、我が強くて、他人任せで、自己不信的で、命を懸けてるような音楽を。こんな解釈が面倒臭くて、哲学的で、でも実は身近にあるような問いを。
 言葉のセンスやキレも素晴らしいが是非instも聴いて欲しい。小鳥の囀りのような日常の音が、言葉を排した、主人公の景色が観せてくれるかもしれない。


 あとハイダンルウパアとシイクレットダンスホウルをですね......あと出来ればしりとりシリーズの続きをですね......ノーメロの楽曲も好きなんですけど、黎明期の強烈なアンチテーゼによる主張みたいな楽曲ください......

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