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アントニオ猪木に近づきたくて・・・

こんばんわ、劇団超人<正直に言います!>予備校主宰の魔人ハンター<アントニオ猪木追悼号、全種類揃えたいなー>ミツルギです。

現像したときにもらえる安っぽいアルバムに入れてたらビニールがひっついて離れなくなっちゃいました。

一枚の写真があります。
アントニオ猪木さんと撮った唯一の写真です。
平成3年(1991年)のものです。
私が23歳の頃です。
就職活動時に撮ってもらったものです。
探したら出てきました。

幼いときから私のヒーローでした。
プロレスを見るウチに育ったのです。
お婆ちゃんの影響だと思います。
お婆ちゃんはプロレスが好きで、一緒に見てました。

タイガー・ジェット・シン
ブルート・バーナード
ジョニー・パワーズ

怖かったです。
『ウルトラマン』の怪獣、『仮面ライダー』の怪人なみに怖かったです。
そんな相手をバッタバッタと倒していくアントニオ猪木。
それも楽々勝つわけじゃなくて、苦戦の上で倒して行くのです。

アンドレ・ザ・ジャイアント
スタン・ハンセン
ハルク・ホーガン

もうサイズから怪獣に近い奴らも猪木は闘います。
時々、負けたり、いいところないまま終わったりとかありましたが、
「次はやってくれる。・・・たぶん」
と思わせてくれました。
いや、無理しても思い込もうとしてました。
そこで最後にやり返してくれました。
そこでダメでも、その次はやってくれるのでした。

ずっと私のヒーローでした。
いや、正直に言うとUWFが隆盛のとき、気持ちが離れたこともありますが、ずーっと観てました。

大学時代は猪木さんの本を読みまくりました。
うちの2番目の兄が猪木さんの本をよく買っていたのです。
かなり熱い本です。

「毒の入ったコップを出されて飲めと言われたらどうする?
逃げ出せないとなると死ぬしかないのか?
いや、口に含んで吐き出すこともできる。
飲もうとしてこぼすこともできるじゃないか。」

確かこんなことが書いてありました。
あまりにもピンと来ないシチュエーションだったので、何となく覚えてます。
「毒を飲め! 」
と言われたことは運よくまだないです。
読んでると血がたぎって来るのです。
「頑張ろう! 何かを」
という気になるのです。
そんな感じなのでしんどくなるのです。
そんなときに1番上の兄が買ってきた桂枝雀さんの本を読みました。
三男坊の役得です。

「萬事機嫌よく。」

の人です。
要するに「笑う門には福来る」のようなことが書いてました。
イライラが無くなるのです。
ホッとできるのです。
「自分を肯定しなさい」
と言われてる気がしました。

『燃える闘魂』と『萬事機嫌よく』のおかげでバランスが取れました。
なので、自分が一歩も前に進めない奴になってしまいました。
内面が複雑になっただけで。

そして、大学も卒業が見えて来て、就職活動してました。
当時(30年ちょっと前)はバブルで、かなり企業からDMを送って来てくれたのです。
大きめのダンボールがいっぱいになるぐらいです。
テレフォンカードを送ってきてくれる会社もたくさんありました。
私には就職してどうしょうという展望がなく、ただテレフォンカードを送ってきたところにだけ、返信するというなめた真似をしてました。
そのDMの中にアントニオ猪木イラストが見えたのです。
『リズムタッチ』の会社でした。
猪木さんがCMやってた低周波治療器です。
これは面白そうだと思って説明会に行きました。

着こなせてないリクルートスーツを着て行きました。
それまでも何度か説明会に行きました。
そこはどことも違う感じでした。
社長が延々と語るというスタイルでした。
それがあまりにも熱く心動かされたのです。

面接に行き、手ごたえもありました。
何より自分がやってみたいと思えた唯一の会社でした。

「今度、会社のパーティーがあるから来なさい。」

と社長から招かれたのです。
まだ、行くとは決まってない会社のパーティーに行っていいものかどうか?
悩みました。

「猪木も来るよ。」

行くことにしました。

写真はそのときのものです。
握手してもらい、サインももらいました。
もうその会社に入るしかないですよね?

「猪木さんに近づけるにはここしかない。」

と思いました。
プロレスラーでもないのに近づいてどうするのか?
と今なら思うのですが、当時はそれ以外に答えはありませんでした。

入社し、社会人の厳しさが身に沁みました。
最初は部長や次長について行動するというものでした。
いろいろ新鮮な風景だったのですが、毎回、やたら緊張していました。
ウチに帰るとドッと疲れました。
そのうち同期がどんどん辞めて行ったのです。
私も営業に回り、大変さがわかりました。
売ることができない無力さと残業の長さに苛立ちを覚えてしまいました。
まだ私は子供だったんだと思います。
愚痴をこぼせる同期たちもどんどんいなくなり、居場所の無さを感じ出しました。

その頃です。
会社の1階駐車場に『スポーツ平和党』の選挙事務所ができたのは。
スポーツ平和党のポスターをもらったりして満足していました。

ちょっと早めに帰ってきた私は、事務の人から

「今、猪木さん居てるで」

と、教えてもらい、慌てて色紙を買いに行き、サインをもらいに行きました。

「すいません。上の会社のものです。」

疲れてそうな猪木さんが居ました。
が、ニコッと笑ってくれました。
サインをもらい、握手してもらいました。

「ありがとうございます。」

と一言うのがやっとでした。
さっと出てきました。

そのときに
「もう終わったなー。」
と思いました。
もう思い残すことはありませんでした。
やり遂げたのです。
猪木さんのサインで始まったサラリーマン生活も、猪木さんのサインで終わりました。

決まった仕事だけは済ませ、9月の頭で退社しました。
私のサラリーマン生活は約5カ月で終わりました。
一緒に入った25人の同期たちは私が抜けて4人になりました。

その後、演劇とどっぷり向かい合うことになります。
会社の愚痴を言いながら過ごすより、やりたかった芝居をトコトンやろうと思ったのです。

今、後悔していません。
あの会社に居たことも辞めたこともです。
ほんの少しだけ猪木さんと遭遇できたことを含め、たくさんの経験を積むことができました。

電車の中で猪木さんの死を知りました。
スマホのニュースに出てきたのです。
いや、YouTubeを見てそんなに長くないだろうなーとは思っていたのです。
それでもショックでした。
一緒に出掛けていた妻にずっと猪木さんの話をしてた気がします。

「行けばわかるさ! 」

猪木さんは言いましたが、私は30年芝居をやってもまだわからないのです。
まだずっと迷いながら、「ああでもないこうでもない」と言いながら進んでいる気がします。
それでも前に進んでますかねー?

握手した猪木さんの手は大きかったです。
私の手、あの頃より大きくなってるといいなー。

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