無いはずの手痕(弔いの葬儀師 2話)
どこからともなく、線香の香りが漂ってきた。葬儀屋さんは、煙に包まれながらゆっくりと私のところへ歩いてきた。いつもの色付き丸眼鏡は外していて、何とも言えない日本とヨーロッパのスタイルが混じったような独特な服装をしていた。
その服は、少し牧師さんみたいだけど、同時に神主さんのような雰囲気もあって、なんとなくカッコいいと思った。
「お母様やご家族が信仰していた宗教や宗派はありますか?」葬儀屋さんは、そんなことを静かに尋ねてきた。彼の声はいつも通り、落ち着いていて、どこか慈悲深い感じがした。
「うーん、特にないかな。ママとは、いろんな神社や教会に行った事は有るけど。」と私は答えた。私たち家族は特に宗教にこだわりはなく、ママは色々な場所にお参りしてた。
葬儀屋さんは、お墓に行った事が有るか聞いて来たけど、お墓参りに行った記憶が無かった。ママは自分の両親とは仲が悪かったみたいで、すぐに家を飛び出して1人で生きて来たと聞いた事があった。私は首を横に振りながら「お墓はないです」と答えた。
葬儀屋さんは穏やかな表情で「それなら、万国共通の祈りで、お母様をおくりましょう」と言った。その言葉には、どこか世界を包み込むような広がりがあった。
「準備が出来たら声を掛けますので、それまでそこでお待ちください。少し時間が掛かると思います」そう言い残して葬儀屋さんは車の奥へと消えた。
テレビから流れるニュースの音に混じって車のトランクが開く音がした。
葬儀屋さんが棺を車から出して、荷台のようなものに乗せた後、すぐに車の裏に移動させていた。音だけで棺を開けて何かをしてるのは想像出来たけど、大きな車に隠れて此処からでは何をしてるのか分からない。
葬儀屋さんが戻るまでの間、私はずっと考え込んでいた。テレビに映っているニュースの音に混じって、時折り音が聞こえた。
彼が棺を開け、何かをしているのは想像できたけれど、大きな車に隠れて、具体的に何をしているのかは見えなかった。呪文のような言葉や、カチャカチャという金属音、アルコールのような臭いが漂ってきた。
私の心には疑問が浮かんでいた。警察が言うには、ママの死因は自殺だった。でも、私が知るママはそんなことをするような人ではない。ママの遺体を引き取るのにお金がかかると警察官は言っていた。そして、この葬儀屋さんは無料で葬式を行うと言った。どうして彼がママの遺体を引き取ることができるのか? その理由が分からなかった。
書類に署名をして渡したけれど、今になって考えると、その全てが不可解に思えた。私はただ流されるままにしていたけれど、今は疑念が頭をもたげていた。
「本当にこれでいいのだろうか?」そんな疑問が心の中で渦巻いていた。でも、同時にどこかで、この葬儀屋さんが私とママに何か意味のあることをしてくれているのではないかという気もしていた。
私は静かに息を殺し、ゆっくりと車に近づいた。彼が何をしているのか、その真実をこの目で見たいという思いだけだった。
車の陰で何かをしてのかそっと覗き込んだ。私が見たのは、葬儀屋さんが丁寧にママの遺体を扱っている姿だった。彼はママの身体を丁寧に白い布で拭き取り、その手つきはとても優しく、尊重を込めていた。
警察署で見たママの顔は、苦しげで青ざめていて、その光景は私の心に深い傷を残していた。だから、今、ママの顔を見ることは望んでいなかった。だから、ママの顔が白い布で覆われていたことに、私はほっとした。警察署で見たママの苦しそうな顔は、今でも私の心に痛みとして残っていたから。
でも、すぐに私の安堵は恐怖に変わった。葬儀屋さんがママの足首を拭こうと死装束をめくり上げたとき、そこにはっきりと紫色の人の手形があった。
「なんで!?」私は、思わず声をあげて叫んだ。その手形は、まるでママが誰かに強くつかまれたような痕。これが本当に自殺なのか? 急に、警察や葬儀屋さんへの疑念が心がいっぱいになった。
『警察も、葬儀屋さんも、みんなグルで私を騙してるんじゃないの?』そんな考えが私の心を覆い尽くした。ママが自殺したという警察の説明に、今になって深い疑問を感じていた。
葬儀屋さんは私の叫び声に驚いて、私の方を見た。彼の顔には、私の恐怖を理解するような表情が浮かんでいた。
「これは何ですか!ママは本当に自殺したんですか!?」私は涙ながらに問い詰めた。しかし、彼は静かに、しかし確かな声で答えた。
「私は真実を見つけるためにここにいます。あなたのお母様の真実を。」彼の言葉には何か重要な意味が込められているように思えた。
葬儀屋さんは、妙に落ち着いた様子でゆっくりと「何が見えたんですか?」と静かに問いかけた。私は、まだ興奮と恐怖で震える声で、「何ってこれですよ!!」とママの足首を指差した。しかし、そこには、先ほどまで明らかにあったはずの手の痕が消えていた。
「え?え?」と私は声を上げた。私の目は疑いを抱きながら、足首をじっと見つめた。一瞬のうちに何かを塗って隠したのではないかと疑ったが、足首には何の痕もなかった。
「あれ?私、何を見たんだろう…」と私は自分の見たものに疑問を感じ始めた。混乱する私の心は、恐怖と疑念で揺れ動いた。
葬儀屋さんは私の混乱した様子を見て、優しく言った。「大丈夫ですよ。」
彼の言葉は、心に少しの安心をもたらした。でも、私の心の中にはまだ疑問が残っていた。本当に私が見たものは幻覚だったのか、それとも何か他の理由があるのか。
葬儀屋さんは黙ったまま、さっき掴まれた痕が有ったママの足首を、丁寧に酒か何かのアルコールのようなものを吹き掛け白い布で拭っていた。その事からも、彼が化粧か何かを塗って隠したわけじゃ無いと分かった。
混乱と疑問を抱えながら、彼の動きを見守った。
何が真実なのか、この状況をどう受け止めればいいのか、分からない。でも、あの跡は絶対に見間違いじゃ無いと感じた。だから葬儀屋さんに「さっき、その場所に確かに足首を掴んだ手の痕が有ったんです」と伝えた。
葬儀屋さんは作業を止めて、私の話を黙って聞いていた。彼の眼差しは疑うようなものではなく、ただ静かに受け止めてくれるような気がした。彼のその態度に、私は自分の抱える疑問と恐怖を全て打ち明けることができた。
「ママは絶対に自殺なんかしない。誰かに殺されたんだ!警察なんか信用できない」と力強く叫んだ。すると、葬儀屋さんは穏やかで優しい表情で頷き、「貴女にも見えたんですね」と静かに言った。
彼は落ち着いた様子で話し始めた。「その足首の痕は、確かにありました。しかし、それは普通の人間の目には見えないものです。あなたのお母様は、特別な存在と接触していたのです」
私は驚きと混乱で言葉を失った。彼の言葉は、私の中の恐れと疑念を一層強めた。「特別な存在?」と私は繰り返した。
「はい。私の仕事は、このような特殊な状況を解決することも含まれます。お母様が触れられたのは、この世のものとは思えない力によるもの。私はその力を取り除き、安らかに旅立てるよう手助けしているのです」と彼は静かに説明した。
私の心は混乱と衝撃でいっぱいだった。この葬儀屋さんはただの葬儀屋さんではなく、何かもっと大きな役割を担っているようだった。
「それで、ママは…」と私は言葉を続けようとしたが、彼は優しく首を振って遮った。
「心配しないでください。私が責任を持って御見送りをするので、お母様は安全です。そして、あなたも」と彼は言った。
彼は棺を部屋の中央に静かに移動させた。その後、お花や水、ご飯などのお供え物を丁寧に棺の周りに配置し、儀式の準備を始めた。部屋には静けさと厳かな空気が満ちていた。
彼は儀式を開始する前に、ママが眠る棺に向かい跪いて、深々と何度も頭を下げて祈りを捧げた。その姿に、本当にママの事を思ってくれていると感じて、少なくても彼がママにとって悪い事をする人では無いと感じた。
儀式はゆっくりと始まり、葬儀屋さんは静かに何かを唱えていた。その声は、所々で日本語に聞こえるようでありながら聞こえないような、不思議な響きを持っていた。彼の唱える呪文のような言葉と、お経は部屋中を静かに包み込んでいった。
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