地獄の女子校生活から私を救ってくれた5人の男たち
小学校の頃の私は、決して真面目ではありませんでした。
学校の先生には反抗したし、テストではカンニングしていたし、友達を平気で仲間外れにしていました(逆に私もされていたけど)。
中学校は、当時の同級生たちと同じ公立の学校には通わず、母の願いで母の母校に入りました。
地獄の始まり
私が通ったのは、カトリックの、中高エスカレ-タ-式の学校でした。
女子校で、校則がバカほど厳しく、10代の多感な女子にとっては窮屈な場所でしかありませんでした。スク-ルカラーが緑で、緑一色のだっさい制服でした。靴や靴下、かばんも学校指定のものを使っていました。
髪の毛は絶対黒色でなければならず、ゴムもピンも黒でなければいけません。
前髪はOn the 眉毛か、七三分けにしてピンでとめなければいけませんでした。
髪は肩につかなければ下ろしていても良いけれど、長ければ必ずくくらなければなりません。
地毛が少しでも茶色かったり、髪の毛が顔を隠していたり、制服を着崩しているのがバレると、職員室に呼び出されたり、抜き打ちで行われる風紀テストの時にエラく叱られます。
叱られ足りない場合、何十時間という奉仕活動をさせられました(犯した罪によって時間が異なる)。確か、校庭とかの掃除です。
学校に化粧をしてくるのはご法度で、細まゆが流行っていましたが、眉の形を整えるのも禁止。友達は、眉毛を抜いていて、風紀検査前に眉毛を鉛筆で描き足したら、先生が指につばをつけて消してきたそう。…オエ~。
制服は特に、スカートの長さが見られていました。
先生たちが黒板の上の方まで手が届きやすいように、黒板の前には一段段差がありました。そこひざまずかされ、スカ-トの長さをチェックされるのです。
校内だけでなく、学校の外でも生徒たちは監視されていました。
腰のところでスカートを外折りにし、丈を短くして自転車で下校していた時、超怖いミイラみたいなおばあちゃん先生が車で横に乗り付けてきて、「あんた何年何組名前は何なの!?!」と無茶苦茶どなられたこともあります。
長いスカートを履いてたら、空気抵抗受けて自転車漕ぎにくいんすよ😒って口答えする勇気、当時の私にはありませんでした。
中学1年生の時に仲良くなったきみちゃんは、中2になった第一日目に、髪の毛をド金髪にしてきて登校。高校生のお姉さんたちの冷ややかな視線も気にせず、堂々と全校生徒が集まる朝礼に参加していた姿を見て、私は「きみちゃん、かっこいいよ」と声をかけました。
きみちゃんと私は授業中もふざけていることが多く、成績も悪かったので(2人とも初めての中間試験で数学が30点台だった)、先生方から目をつけられていました。担任の先生は、保護者会で私の母に「あなたのお嬢さんは、授業中落ち着きがありませんね」と言い、その理由は私に「父親がいないからだ」と言い放ったそうです。
母はすっごく悔しがっていて、私も母の話を聞いた時に二度とあの学校には行きたくないと思いました。いや、また次の日も行かないといけなかったんですけどね。
きみちゃんは、髪の毛を金髪にしてきた日に退学となり、それからは公立の学校で自由なギャルになっていました。
きみちゃんと放課後遊んだ時に、きみちゃんが連れてきた男の子のバイクの後ろに制服姿で乗ってしまったので、私は停学処分を食らいました。
それ以降、母は、私がきみちゃんと仲良くすることを禁じました。
母の言いつけは守らず、大好きなきみちゃんと最初は隠れて会っていましたが、次第に会わなくなってしまいました。…今はどうしているんだろう。
きみちゃんがいなくなって、私の学校での立場はさらに悪くなりました。
仲良くしていた友達はみんな成績が良く、先生たちからも気に入られていました。でも私は、相変わらず成績も良くないし、先生たちから嫌われていました。
普通に授業に参加していただけで、体育の先生(めっちゃ怖い顔の男の先生だった)が私の態度が気に食わないと、肩を何度も小突いてきました。
イギリス人の先生に、私の机だけ一番後ろの席まで移されて、私はいないように授業がすすめられた覚えもあります。どうやら外国では、それはとても屈辱的な罰らしいです。
生物の先生は、学校一優しい先生だったらしいけど、一番最初の授業でド叱られました。これは私が悪かった記憶があります😂。
学校が本当に本当に本当にホントに大ッ嫌いで、窮屈で、誰も私の味方じゃないように感じていました。
6年間の学校生活を終えた卒業式の日も、私は一滴の涙もこぼしませんでした。卒業式の間は、先生の写真も、同級生の写真も、思い出の校舎の写真もいらないから、早く帰りたいなとずっと思っていました。
あんな場所に翌日からもう戻ってこなくて良いのがうれしくて、明日は美容院でパーマをかけようとか、ネイルの予約をしようと考えていました。
私を救った男たち
▲大好きなんだけど、こんなんしか描けんくてほんまごめんなさい。
中学2年生だったある日、クラスメイトが、洋楽のCDを貸してくれました。
かっこいいから聞いてみて、と。
J POPとB'zが大好きだった私は、洋楽に全然興味はありませんでした。でも、せっかく貸してくれた友達に悪いなと思って、1曲だけ試しに聞いてみることにしたんです。
すると、めっちゃくちゃかっこよくて、「え?なんこれ?」って混乱しました。
彼女が貸してくれたのはBackstreet Boysのミレニアム。
このアルバムで、彼ら(以下BSB)のとりこになりました。
問題は、「英語で何て歌っているのかがわからない」こと。
歌詞がわからないと、歌を口ずさむことができません。
好きな歌を歌えないって、とっても悲しいんですよね。
だからひたすらCDを聞き、歌詞カードを見ながら、歌う練習をしていたんです。
そしたら、歌詞の意味を知りたくて、辞書を引くようになって、だんだんPOPだけじゃなくてR&Bも聴くようになって。するとスラングを覚え出して、MTVを見るようになって、海外のシトコムを見るようになりました。
BSBのおかげで、英語に興味が持てました。
そしたら、勉強するのも苦痛ではなくなって、自然と成績も伸びました。
勉強をすれば、もっと歌詞が聴きとれるようになって、ドラマのセリフが理解できるようになって、もっとやろう、という気持ちに勝手になりました。
英語に力を入れていた学校だったので、英語の成績が伸びた途端、先生たちからの扱いが変わりました。
先生が私に冗談を言って話しかけてくれるようになり、進路を気にしてくれるようになり、優しくなりました。
中学3年生の保護者会で初めて、「お嬢さんは落ち着きがありませんね」とは言われなくなりました。
先生たちにやさしくされると、学校でもずいぶん生きやすくなりました。
他の科目も、平均ぐらいの点数は取れるようになりました。
BSBが私を地獄の日々から救ってくれたんです。本当にありがとう。
▼ベタだけど、この歌がめっちゃ好きです。
不真面目な学生の末路
学校で平均点ぐらいは取れるようになっても、たぶん基礎ができていなかったから(母曰く、小学校の算数から時サボってたから、数学ができないんだわと言われた)応用が全く効かず、模擬テストでは全然良い点を取れず、いつもE判定をもらっていました。
受験の年も私的にはすごく勉強したけど(母からしたら、私は真剣さに欠けていたそう)、センター試験の結果は散々でした。生物が36点。マーク式のテストなのに36って。
おかげで、目指していた大学には進学できませんでした。
でも結果、割と有名な歴史ある大学にいけたし、そこで一生の友達もできたし、最高に楽しい4年間を過ごせました。
今なら何となく、先生たちの気持ちもわかるような気がします。
せっかく準備してきた授業を真剣に聞かず、勉強にも真剣に取り組んでいない。テストの点も悪い。そんな生徒、自分が教師でも生意気で嫌なやつだなって思ってしまうでしょうよ。
私も悪かったと思えるから、先生方から言われたいろーんな厳しいお言葉のほとんどは、もう水に流せます。
でも。
あの時母が担任に言われた「父親がいないから落ち着きがない」って言うのは、やっぱりまだ許せない。
そんなことを言う教師を野放しにしていたあの学校も、正直閉校になればいいとまで思ってしまう。その方が、世のためだよ。
生徒は先生を選べないから、嫌な先生にあたっちゃったら、学校や勉強なんて大嫌いになるんじゃないかな。
あの学校で(残念ながらまだあるんだわ)、私のような目に遭っている子たちは、もういないといいな。そして、先生に目をつけられる、なんて表現がなくなってればいいのに。
今あの学校にいる学生たちが、ただでさえ大変な10代を、少しでも楽しく過ごしてくれていればいいなと心から思います。
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