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The 2nd 「エロスと資本」から読み解く母と娘の関係

さて。次のテーマに移りましょう。
こちらの本からお互いに感想を言い合う往復書簡。

テーマの二つ目は第一章「エロスと資本」から行こうと思います。
そのままエロスと資本の話をする…というよりも、母と娘の関係性について話したいと思います。
上野さんも鈴木さんもお子さんがおられないので、ちょっと違う視点が入ってきますが、私の考えていることを書こうかなと。

まずしょっぱな大事なことなんで何度も言っておきますが、私自身、子供という生き物が大の苦手てで、本当にたまたま子供を授かっただけで「子供礼讃!」「子育て最高!」とは思っていないです。(しつこくてごめんね)

とはいえ、たまたま子供を育てる機会に恵まれて色々と学ぶことが多かったので、子育てを通して自分の変化の良かったところをメインに書こうと思います。

「母と娘」と「母と息子」は微妙に違う関係性

どうすれば「自分の妹たちに生きるに値する世界を手渡せるか」
~中略~
もし今の年齢になるまでにあなたが子供を産んでいればこの問はもっと切実になるでしょう。
「子どもたちに生きるに値する世界を手渡せるかと」

私には3歳の息子と1歳の娘がいます。
不育症治療をして授かったので本当に二人に出会えたのはラッキー中のラッキー。産まれてくれただけでオールオッケー!あとは沢山食べて寝てくれたらそれでいい!と基本的に思ってるんですが、娘が産まれたことで息子が産まれたこととは違う感情を抱きました。

コロナ下での出産で誰にも立ち会いすることが許可されず。
1人で陣痛に耐え、一人で分娩室に上がったわたし。
二度目の出産もやっぱりすっごく痛くて「人体の設計ミスってるだろ!!神!!」とやり場のない怒りを神にぶつけてなんとか出産を終えた3時間後ぐらいから早速新生児のお世話が始まったわけです。過酷すぎるよね~ほんと。

その時に息子の時にはなんとも思わなかったんですが、娘のおむつを替えるときに、娘のお股を開いてギョッとしたんですよ。

『あぁそうか…娘ももし子供を望んだら、私がたった今味わった、気絶するほどの痛みを味合わなくてはいけないのか…』と。

それが一番最初でした。
陣痛の痛みも、妊娠のつらさも、生理の不快感も、当然のごとく女性を馬鹿にしてくる男性も、痴漢にあったことも、帰る夜道が暗くて不安になる気持ちも、キャリアにうんうんなやんだことも、子供ができなくてつらかったことも。
私が「女」で嫌だなぁ、理不尽だなぁ、世の中の意思決定者の半分が女性だったらこうはならんだろ(笑)と思ったことが沢山あるんですが、この子これからそれを味わっていくのかと。

そう思うと、毎日毎日まぁ子育てでぐったりしてるんですが、私の中の坂本竜馬が海に向かって叫ぶんですね。「どげんかせんといかん!」と。

娘に「強くなって生き抜いてほしい」と言うのか?と考えた時に、否!!となりました。
いや、そんなの世の中の方が間違ってること多すぎだろ…と。
現実に制度が追い付いていないことが多すぎるだろ…と。
それを飲み込んで強く生きろと言うはたやすい、社会を変えるよりも娘を変える方がたやすいけれど、それは違うだろ!と強く思いました。

以下、とは言え私の葛藤が続きますが(笑)
でも娘に「もうお母さんいいよ~、私わりと今のままで幸せだよ」と言われるまで、母は理不尽に抗おうかなと思っています。戦っている背中が大事かなと。


子供を育てる上で、息子と娘に一番に思うことは、二人とも自己肯定感を高くもってほしいと強く思います。ありきたりすぎる。

とはいえ、自己肯定感を高める…よりも、無駄に削られないというか。自己肯定感を今のレベルで保つスキルを身に付けてほしい
社会で生き抜くためには、ましてや誰かを守ろうとしながら生きるとき、総合格闘技のごとく今まで培った技術や経験を総動員して24時間闘うような、そんな世の中になります。
社会で生きるためには自分の尊厳を守るために闘うことが必要です。自己肯定感を保ってのびのび褒めて育てたいと思いつつ、反面、武装せねば生きていけぬぞと武士の家のように厳しく言ってしまいそうなときがある。
この気持ちの行ったり来たりで毎日生きてます。子供からしたらどっちやねんですよね(笑)

また、娘には先ほど書きましたが、私が味わった嫌~な気持ちは絶対に味わってほしくないと思います。ここでも男性とは違う、女性ならではのある程度の闘い方を知らないといけない。(男性は男性なりの悩みや苦労はあるんだろうけど、それは私はわからないんでね…)
とはいえ、娘は令和の時代を生き、娘なりの生まれもった性格があり、価値観がある。私は私の価値観がある。娘の価値観を尊重しつつ、とは言え古い考え方の私なりに、今の時代でも変わっていない理不尽から身を守ってほしくて闘うスキルを身に付けてほしいと思ってします。
ここでも矛盾ポイントです。

子供を失ったことでの「自恃」

子供を産んだ…というよりも、流産の二回の経験が、自分の大きな人生訓を与えてくれましたね。

人の生き死には、どう頑張ってもどうにもならないことがある。
世の中には自分の努力ではどうにもならないことがある。

余談。
こう書くと当たり前なんですが、頭では理解しているつもりで腹落ちしていませんでした。高学歴女性ではよくある間違いだと思いますね。私自身本当に自分の努力だけでここまで来たと思い込んでいました。
自分の努力で○○大学に入った、○○企業のポジションを手に入れた、給料が○○だetc
もちろん努力がないとなれないんですけど、そもそも産まれもった家庭が子供に投資できた、などポジションのメリットも充分あります。先日上野さんが東大の祝辞で述べた内容に近いですが。

んで、『あぁ本当に頑張ってもどうにもならないことがあるんだなぁ』と二回の流産の後、絶望感に包まれていたんですが、不育症治療に踏み出せたきっかけは本にも書かれていた内容でした。

30代は、子供時代の万能感を失って能力にも体力にも「限界」を感じる時期です。それと同時に限界までなら自分に何ができるのかという「自恃(みずからを恃(たの)しむ心)」もまた産まれる年齢です。

ここまでが自分の限界だと、自覚することで、じゃあここまでならトライできるという確信が産まれました。これがたぶん、20代のころと決定的に違う「自信」です。

仕事でも子育てでもマジでキツイ。限界だ…と思うこともあるんですけど、あの時と比べてどうか?まだ自分にやりようはあるか?それともやり切ってあとは運に任せる段階か?と考えるようになりました。

そう考えることで、だいたいのことは「いやまだもう少しいける、戦える」となるんですが、この辺のタフさは流産や出産を越えると身に付いちゃうひとが多いんじゃないかなと思います。(あれ、もしかして私だけかな…)

子供を産んだことでのポジションの変化

で、そんな自恃をゲットした私。
そんな私が運よく子供を授かったことで、ポジションの変化がありました。これがまた妙味で学び深い…
人生いろいろトライしてみるもんだなと思いますね。

子供が生まれて、娘が産まれて「うわ~…」と感じる(前述)こともあったんですが、
「私は誰かの娘であると同時に、誰かの親である」という二つの視点を同時に手に入れることができました。

私の母親は専業主婦で、当時の女性としては王道な結婚生活をしていました。なんですが、父親は浮気三昧で、本当に大変だったんですね(笑)
そんな母は私と姉を戦闘民族に育てたかったみたいで。「高学歴な女性に育てた母」という称号を子供を使って手に入れたかったようです。

小学生高学年にもなると、セックスはよくわからないが、父親が汚らわしい存在だと明確に自覚していました。
中学生になると今度は父親以上に母親が嫌いになりました。
『そんなに不満があるなら自分で状況を変えたらいいのに。なんで私を使うんだろう。自分がラクする言い訳にしないでほしい』と。逃げるなと。

その後、母は働きに出てから我が家は激変し、母の下剋上が始まるんですが(そこから母と仲良くなりました(笑))
この時の「娘の私」がじっと「親の私」を見張っています

本の第二章の鈴木さんのパートで、徹底的にお母さんを分析している聡明な鈴木さんの言葉がじりじりと私を追い詰めます。

私もそうであったように、娘とは母を鋭く分析する存在だと思います。徹底的に自己矛盾を突く。男だから、女だからと分からないから指摘しきれない夫婦の関係と違うのです。わかる部分が多いから、お互いに充分分析ができるのです。

私はずいぶんと母に鋭い指摘をしてきました
今度は自分が指摘される側です。
ビビってる…わけではないですが、時代が異なる、娘と比べると明らかに「古い人間」の私が、親子という圧倒的に娘に比べて強者のポジションで、娘の価値観を守りつつ、自分の意志(ある程度の戦えるスキルを持ってほしい)を受け継ぎたい…
このためにどう接するか?がすんごーーーい難しいなと思います。

結局、いくら口で行ったところでダメなんでしょう。
「子は親の背中を見て育つ」とよく言いますが、自分自身、父親がいくらご高説を垂れたところで一切心に響かなかったように、子供ほど親の実行力や結果、言ってることとやっていることの矛盾を見抜く存在はいないと思っています。
私自身が私なりの価値観でいいから、言行一致をしていくことが大事なのかなと。娘と息子ときっと価値観がぶつかり合うことがあったとしてもでも、「ゆうておかんは行動は一貫してたな」というところでは分かり合えるんじゃないかと思います。いや分かり合えると信じたい。

ウィークネス・フォビア(弱さ嫌悪)の自覚

子供を失った、産まれたことで得られた知見として、自分自身、ウィークネス・フォビア(弱さ嫌悪)を抱いていたんだなと気づきました。

「被害者」と呼ばれたくない、「弱者」であることが我慢できない、という気持ちをウィークネス・フォビア(弱さ嫌悪)と呼びます。
~中略~
女が被害者面するのが許せない、私はあのひとたちとは同じではない、私は弱くない…と。

母の教育あってか、戦闘民族に見事?育った私ですが、社会人になってオジサンの中で働くうち・子育てしているうちに、なるほど母がこう育てたかったのはこのためだったのかと思うことが沢山ありました。

今まで学生までは親の庇護のもと、わけのわからない人と接することがなかったですし、独身時代は「子育て中」という弱者カテゴリーに属していなかったのであまり感じませんでした。

ポーンとサバンナ(社会)に放り出されてみると、意外と世の中、しれっと自分のことを馬鹿にしてくることが「常識」としてデカい面をして隣に座っていることがあります。

そういう時に自分を強く、しっかりと保たねば…と思うことが多いです。いや未だに思うことが多い。ベビーカーに子供を載せて歩いていると車輪を蹴ってくる人とか、強くあらねば…!と思う場面がまぁまぁあるんですが。

とは言え、「これは耐えられます」「私こんなことまでできます」「こんなにタフです」と男性社会で主張し続けなくてもいいなと最近思うようになりました。

生理でしんどかったら休むし、子供の看病でこっちも大変だから休むし、キャリアのブランクがあるからしゃーない部分もあるし。

「だからなんだい!」と言っていいかなと。私がしんどいということで、同じ気持ちの人は言いやすくなります。産まれ持たされた、自分の弱さは本当にめんどくさいんですが、でも人にやさしくできるきっかけなんだなと思いたいなと。いやぱっと見、ただの文句ばっかり言って権利を主張するオバサンなんですけどね(笑)

なので総論、何が言いたかったかというと、流産して子供ができなかったとしても、子供が生まれた今の私も、なかなかいい味出してきてるな…と。
そう思える自分をデザインできてきてるかなと思います(なんじゃい)

以上、第一章の感想でした!

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