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全訳してみた:仏の進撃特集番組

突然ですが、進撃ガチオタ勢でありながら私、『進撃の巨人』finalシーズンの今冬アニメ化に非常に消極派というか、時期尚早ではないか派です。

もちろん、finalアニメ化、すっっっごく楽しみです。が、取り扱いを一つ間違えると色々な意味でこわい作品だな、、、というのが、原作最終話までを読み終えた今の私自身の率直な感想です。それくらいに、ラストにかけての主人公・エレンによる「地ならし」は、表現が非常に難しいと感じました。

これは『進撃の巨人』という物語の最大の魅力のひとつでもあるのですが、物語に登場する記号が非常に多義的なのです。その結果、しばしば左右全く相反する主義主張をもつ人々にも同時に受容され得てしまう。主人公たちを取り囲む「壁」に、アメリカとメキシコ国境を分断する壁を、津波から人々の生活を守る防波堤を、イスラエルがガザ地区に築く「天井のない監獄」を・・、誰もが「自分の物語」をそこに読み込めてしまうのです。

原作でも主人公の行為、およびその結末の描き方に対して多くの賛否があがりました。アニメーションは、声優の演技、音楽や映像も加わることで、よりエモーショナルに人々の感情にうったえます。いまや同時世界規模となっているShingeki視聴者層の多様性を考えると、なかなかの怖さだな…、と勝手に震えています。。

ここであらためて、『進撃の巨人』最終章をアニメ化する制作サイドの皆様にお願いしたいと思います。数年前とは大きく「時代が変わっている」、その認識を十分に持った上で制作には心して挑んでいただきたいのです。そうたぶん、2年前(コロナ以前)の時代感覚ですらもう既に古いと思っておいた方がよいと思います。今日目指すべきは、「作品の世界的影響力を意識した発信」。言うは易し・・、、実際なかなか簡単なことではないと思いますし、表現の自主規制とも絶対に違います。正直私もなにが正解なのかまだまだよくわかりません。

ただ、この新たな発信環境への意識の変化は、今後、作家も作品自体をも、末長く守り伝えていくうえで絶対に必要になってくるものであると私は考えています。こんな当たり前のことを部外者が今更語るのも大変おこがましいですが、作品を愛する一ファンとして、心からそう願っています。

その一助となるかわかりませんが、様々な海外の進撃分析を読み漁った進撃大好きオタクが、今の話題の延長線上で特に興味深かったフランスのポッドキャスト番組、Programme Bでの『進撃の巨人』特集回(2021年4月9日配信)を、下記に全訳したいと思います。

なぜこの番組を訳したかといいますと、ヨーロッパの人たちが『進撃の巨人』という作品に対峙した時に感じるある種の「とまどい」の感覚を番組の進行を務めるジャーナリストのLucie Ronfautがとても率直に表現していること、それに対するリヨン大学日本学専攻のJulien Bouvard教授の回答もニュアンスと示唆に富んだ非常に傾聴すべき意見だと思ったからです。

当たり前ですが、人々は自らの置かれた文脈の中で生きており、その中で『進撃の巨人』という作品に出会っています。我々は知らず知らずのうちに自国の「歴史」という文脈の中でその物語を読み解いているのです。ダビデの星といったわかりやすいシンボルでなくても、日本の戦闘アニメのオープニング曲で猛々しいドイツ語が繰り返し流れてくる、これだけで「何か」を感じとる人々も世界にはいるのだ…という感覚・・・、こういったものへの嗅覚が今後日本が自国コンテンツ(この言葉は好きではないですが)をグローバルにビジネスとして展開していく上でますます重要になっていくことは間違いないでしょう(勿論、だからその表現を禁止せよ、という意味ではないです。し、だからこそ学生諸君、歴史の勉強は大切よ)。

前口上が長くなりました!いよいよ、番組の訳出です。なお、テキストの訳責は全て私、NEKOにあります。素人のざっくり訳ですので、日本語の読みづらさはご容赦を。そしてフランス語がおわかりになる方はぜひ、こちらの元番組(Programme B Titans en eaux troubles)もご鑑賞ください。話の流れが捉えやすいよう、見出しはNEKOにて追記しました。番組内に登場する固有名詞や史実等は長くなるので一部(追記は[*・・・])を除き、ほぼ説明は割愛させていただきました。

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ールシー・ロンフォー(以下、ルシー) こんにちは。ルシー・ロンフォーです。もしあなたが漫画好きだったり、10代の子たちと付き合う機会があるのなら、『進撃の巨人』というタイトルをおそらく一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。諫山創が2009年から連載を開始し、日本だけでなく世界的な現象となっているマンガです。フランスではすでに発行部数350万部を超え、今世界中のファンたちが、日本で4月9日に発表される叙事詩の最終章を待ち望んでいます。

『進撃の巨人』のアンビバレントな世界
ールシー 『進撃の巨人』では、壁に囲まれた世界で暮らす人類が、残虐な巨大モンスターである巨人の脅威に脅かされて暮らしています。物語の冒頭、母親を巨人に食べられ復讐を誓う主人公エレンは、調査兵団に入隊します。彼は巨人の駆逐を、そして巨人の秘密を暴くことを誓います。……はい、これが物語の始まり。その後『進撃の巨人』の物語は、複雑で濃密…そしてやや「政治的」な方向に進んでいきます。

著者は物語を進める上で、意識的に第二次世界大戦のモチーフを援用したのか?…多くの読者は疑問に思ったことでしょう。アニメのオープニングではドイツ語の歌詞がたびたび登場し、日本の帝国主義時代を参照したと思われるモチーフも散見されます。そして何より、物語が進む中で大きな開示があり、そこからより明確に第二次世界大戦的シンボルが描かれるようになります。ネタバレにならないよう詳細への言及は避けますが、大まかに言って、一方の側は弾圧されるユダヤ人、もう一方の側はナチス政権が象徴的に表現されているように思われます。と同時に作中では、真の善人も真の悪人も明確なかたちで描かれてはいない…。

ある人は、『進撃の巨人』という作品に、ファシズム批判を読み取ります。ある人は逆に、全体主義への賛歌と捉えます。実際、インターネット上ではアニメ画像を利用した極右運動さえ目にします。その一方で、何でもかんでも政治化するのはやめてくれ!という声も多数あります。一つ確かなのは、この問題は非常にセンシティブなテーマである、ということ。現に私は、数週間前に『進撃の巨人』の様々な政治的解釈について書かれた記事をツイッター上でシェアしました。その結果、私は滝のような誹謗中傷を浴びたのです!…私は思いました。ここには深ぼるべきテーマがある、と。

私はリヨン第3大学で日本のポップカルチャー、マンガ史を専門とするジュリアン・ブヴァー教授とこのテーマについて語り合いました。まずはじめに、『進撃の巨人』という作品は実際のところ、第二次世界大戦を参照しているのか、聞いてみました。

『進撃の巨人』における第二次世界大戦
ージュリアン・ブヴァー(以下、ジュリアン) はい、とてもよく問題点をまとめてくださっているように、『進撃の巨人』には多数の参照軸がみられます。とりわけヨーロッパ的な美学へのそれですね。壁の中の社会はドイツの村がモデルとされているようですし、ナチスドイツは言わずもがなです。またより散発的ではありますが、日本の軍部、特にピクシス司令のモデルにみられるような19世紀後半の日本軍人への参照もみられます。著者である諫山創はそういった戦争、特に第二次世界大戦のモチーフを、作品を構成する上で用いていると考えられます。

これまで一部のファンやジャーナリストによって、この作品の政治的側面からの分析がネットを中心になされてきましたが、それらは結局のところ無視されてきたと私は思っています。大衆文化(ポップカルチャー)に属する作品が無価値だからというわけではありません、むしろ逆にこういった議論は大きな論争を呼んできた。にも関わらず軽視されてきたのは、一方で、ポップカルチャーは議論に値しないと考える人々の存在と、また一方では、個人的な解釈に固執する熱狂的なファンの存在によるものだと思います。彼らは、ジャーナリストや研究者といった外部からの分析を自分たちの作品への冒涜として受け付けないのです。

おっしゃる通り、諫山創は非常に頭のいい人物であり、たったひとつの読み方だけを提示するような描き方はしていません。よって特にインターネット上では様々な意見の異種混合が生まれているわけです。戦争、特に第二次世界大戦についての言説(ディスクール)は、この物語に明らかに存在しています。ネタバレになりすぎていないといいのですが、特にストーリーが大きな転機を迎える第二部[*マーレ編]では、こうした問題点に読者は向き合っていくことになります。ここはストーリーの転換点である以上に、登場人物たちの立ち位置の大きな転換点になっています。多分7〜9巻あたりかな、これもちょっとネタバレですが、ここでも既に転換があって、主人公の仲間の兵士たちの中に裏切り者がいたことが明かされます。『進撃の巨人』はこうやって常に、読者の視点(ヴィジョン)に揺さぶりをかけてきます。諌山氏はその点を本当に上手くやっています。

ールシー そう、まさにその点が、『進撃の巨人』を読んでいて我々が・・少なくとも私は、一番ひっかかりました。もしかしたらとてもヨーロッパ的な感じ方なのかもしれないですが、第二次世界大戦から着想を得たはずの物語であるにもかかわらず、何が善で何が悪かを定義しないことに、少し戸惑いを覚えるんです。我々ヨーロッパ人は、第二次世界大戦では悪ははっきりとナチス側にあり、善はその対抗者たちにあるという歴史を教えられてきました。ある意味、我々は中立ではないわけです。だから、視点の転換となった場合、とても混乱してしまう。

JAPANポップカルチャーに通底する「善悪二元論」の拒否
ージュリアン 
漫画やアニメ、ゲームをはじめとする日本のポップカルチャーには、ある種の「善悪二元論の拒否」という特徴があります。我々は、80年代・90年代以降、日本のアニメに親しんできましたが、そこでは悪者はしばしば善人に変貌します。例を挙げると、例えば『聖闘士星矢』という番組では、敵にもヒーローに対して戦う正当な理由があることが描かれます。エピソード中で、ヒーローの敵の(しばしば悲痛な)過去が描かれ、我々は心を動かされる。僕らは、彼ら敵役の心理や視点に興味を抱かされていくのです。様々な形でこのような視点の移動が行われ、善悪二元論は否定される。これは『進撃の巨人』にもとてもよく当てはまります。

日本のマンガでよく見られるのは、ひとつの方向に政治性が向かいすぎて批判が出る際に、もう一つ別のものの見方、世界観を提示してバランスをとるという手法です。このバランス感覚は、私見では『進撃の巨人』で諌山氏が常に繰り返しおこなっている手法だと思います。これは、全く別ジャンルの漫画ですが80年代後半に発表された『沈黙の艦隊』という作品を私に思い起こさせます。作者はかわぐちかいじ、フランスでは『イーグル』や『ジパング』といった作品で知られている漫画家です。彼はこの作品でナショナリストであると批判されました。なぜなら『沈黙の艦隊』という作品のテーマそのものが非常に議論を呼ぶものだったからです。というのも、『沈黙の艦隊』は海軍艦長に回収された原子力潜水艦の話で、彼はその潜水艦を日本国の古名である「やまと」と名付け、独立国家を築くのです。明らかにここには、軍備武装が禁止され、かつ米国やアジアの近隣諸国と対峙せねばならない日本の国際状況へのメタファーがありました。端的に言えばこの漫画は国粋主義的である、と批判されたのです。しかし巻が進むにつれ、より左派的とも呼べるテーマに物語はつながりを見出していきます。国際連合のような組織との関係を築き、国境を廃し民主的な世界政府の樹立という理想に近づこうとする・・、つまり、常にあるのはこのバランス感覚です。このバランス感覚はニュートラルであることを目指すものではなく、世界の複雑さを提示ための手段であり、現代のマンガ家を特徴づけるものであると僕は思っています。

ールシー そういったバランスを希求する感覚はどこから来るものなのでしょうか?日本的なものなのでしょうか?どういった理由があると分析されますか?

ージュリアン うーん、ムズカシイ質問だ。とても数分ではお答えできないですね。。。笑 もちろん日本の歴史的な立ち位置は複雑で微妙なものです。日本はアジアの近隣諸国に攻撃を加えた加害国であると同時に、アメリカの原子爆弾をはじめ大きな損害を受けた被害国でもあります。日本人の大多数は今日も強固な平和主義者です。軍備武装・軍事攻撃を禁止する憲法9条に日本の多く人々が今も愛着を持っていることは、世論調査でも明らかです。こうした日本の歴史的背景の複雑さが、戦後日本のポップカルチャーのもつ複雑なメッセージ性に影響を及ぼしていると言えるでしょう。

日本作家の非政治主義とミリタリーへの陶酔
ールシー 
『進撃の巨人』に話を戻しますと、興味深いなと思ったのが、作者である諌山創氏が、(2016年発行の雑誌KA-BOOMのインタビュー記事を読んだのですが)彼の作品には政治的言説が含まれているのかという質問に対しこう答えていたことです。「多くの国々で、アーティストが(娯楽分野の作家であっても)政治や社会に対して発言しています。個人的には、僕は自分自身にその資格がないと思っています」。この諌山氏の回答は私を驚かせました。というのも、どんなかたちであれ、『進撃の巨人』は明らかに政治的主題を含んでいますから。このある種のパラドクスをどう説明されますか?

ージュリアン まず、自らの政治的見解を表明する決断をする漫画家は非常に少ない、ということです。表明したとしても彼らは大きな批判を受けます。例外としては極右の漫画家である小林よしのりや、数名の左派的な発言をする作家くらいでしょうか。彼らが政治的言説を表明するだけでSNS上で大炎上してしまうわけです。大手出版社から作品を出版せねばならない商業作家達には、明確な政治的意見表明を行うことは非常に難しい選択なわけです。一つ確かなことは、諫山創には多くの日本人アーティストと同様に、武器や軍備へのある種の美的陶酔がみられるということです。だからと言って彼が国粋主義者でファシストであるわけではありません。庵野秀明や宮崎駿といった多くの日本のアニメ監督や漫画家に共通する嗜好性だと思います。ミリタリー愛好家だからといって、彼らが日本の帝国主義時代への復古主義者ではないわけです。

ールシー まさに、私のもう一つお聞きしたかったことにつながります。『進撃の巨人』のもう一つの面白い側面だと思うのですが、ヒーロー・ヒロインたちは兵士として戦いますよね。もちろんこれは日本のマンガでは繰り返し描かれてきた構図であり諌山氏が初めて考案したものではないわけですが…。『進撃の巨人』は、軍人や戦争を英雄視・美化する漫画だと思われますか?

ージュリアン うーん、答えはイエスでありノーです。『進撃の巨人』については常にこの答えになっちゃいますね。笑 「心臓を捧げよ」というスローガンには、明らかに軍事的なロマンチシズムや美化がみられます。それは1936年に起きた二・二六事件を思わせます。二・二六事件とは、極右ナショナリストの青年将校らが、明治のような新時代創設を目指し、議会や中間勢力を無視し、より強大な権力を天皇に集中させるために既成権力に対するクーデターを試みた結果失敗し、死刑に処せられたという史実です。日本でマンガ、アニメ、映画など幅広く作品化されています。理想のために戦い燃え尽きた勇気ある若い将校達の伝説がここから生まれたわけです。『進撃の巨人』でも同様に、我々はエレンをはじめとするヒーロー達に魅了されます。とはいえ、先ほども申し上げた通り、ヒーローの中には裏切り者も出てきますし、第二部以降のエレンは(あまり詳しくは言いませんが)驚くような道を進んでいく。物語の最初に我々に示された理想主義的な描かれ方とは全く異なる方向をたどるのです。

ールシー 面白いですね。私自身、『進撃の巨人』をある種の陰謀論としても分析しているんです。主要人物たちは既成秩序を転覆せねばならない状況にたたされる。これはびっくりするくらい今日我々が生きている世界に符合する話ですよね。陰謀論のフェイクニュース、Qアノンなど・・。すこし読み込みすぎなのかもしれませんが・・・。

ージュリアン いえ、私もあなたの意見に完全に同意しますよ。『進撃の巨人』というのは、作品の価値を十分に理解をするには「解読」を要求する作品であると思います。物語は一読では理解しきれない、わかりやすいものではないのです。時間をかけて、それぞれのキャラクターを理解し、彼らの役割、ストーリーを理解していかねばなりません。物語の展開が常に我々の物の見方をひっくり返してきますが、それでも物語を読み解く鍵となるヒントは散りばめられています。例えば、一読ではよくわからないセリフも巻が進むにつれて価値をもってきたり…、とかね。隠された意味を解読していくように、注意深く読んでいく必要があるのです。そしておっしゃる通り、陰謀論者の理論も思わせますね。我々は読み取りのソフトウェアを変化させて、隠された真実を見つけていかねばならないのです。

日仏マンガ受容史と…これからの未来 
ールシー 私があの『進撃の巨人』の政治性についての記事をツイッターでシェアした際に、多くの人が私のことを「セゴレーヌ・ロワイヤル」[*フランスの政治家。2007年に大統領選に出馬するもサルコジに敗北]だと批判しました。この件についてご存知ないリスナーのために少しご説明しますと、1989年に発表した著作の中で、彼女は多くの子供向け番組に登場する暴力描写の危険性を告発しました。批判対象には、『ドラゴンボール』や『聖闘士星矢』といった日本のアニメ作品も数多く含まれていたわけですが、この本のおかげで、意図せずも彼女は反MANGA派の象徴的存在となってしまいました。いずれにせよ私への非難は全て的外れです。だって私はセゴレーヌ・ロワイヤルと違ってマンガが大好きなので。とはいえ、こうした反応は私に振り返りの機会を与えてくれました。我々はよりシビアに、少なくともアメリカ映画などの他コンテンツとは違った形で日本のマンガやアニメの暴力性を捉える傾向にあるのではないか・・と。

ージュリアン そうですね、他領域との比較はなかなか難しい問題ですが、日本のマンガやアニメの暴力性についてのフランスでの受容という点で言いますと、80年代・90年代のフランスでのMANGAブームの際に起きたマンガ批判の主要な理由の一つは、暴力描写への批判でした。フランスにおけるマンガ擁護派の主張は、それは単に番組編成・放送時間の問題であるというものでした。つまり、「クラブ・ドロテ」のような子供向けアニメ番組の時間帯、水曜や土曜の朝に放映されるべきものではないのだ、と。一方で実際のところ、日本でも暴力シーンの番組を子供向けの時間に放映して同じような問題が起きているのです。90年代に日本でもPTAに強く後押しされて暴力的なアニメ番組の昼間の放映を規制・禁止せよという運動が高まりまりました。日本でのこういったマンガやアニメの暴力性をめぐる議論は古くからあり、例えば、1950年代にすでに、平田弘史のマンガの作中で侍が敵の首を刀で切りおとす場面を読んだ小さな子どもがショック受けたことで、マスコミやPTAに取り上げられ社会問題になっている。このように、日本もフランスと同様に常に問題視はされてきたのです。同時代のフランスのBD(バンド・デシネ)への規制に比べれば、日本の規制はより緩いものでありましたが。

ールシー 他方で、マンガをかなり長く読み続けてきた者として印象なのですが、欧米の日本カルチャーファンの間には政治的議論をある種タブー視する感覚があると感じています。つまり、読者・ジャーナリスト・研究者として作品を客観的に分析してはいけないような…、たとえば性差別や政治的言説といった視点で作品を語ることを許さない空気です。そうした分析は、マンガ産業や日本そのものへの批判であると受け取られるのです。こういった非難の多くはファンの日本作品への無理解から来るものだと私は思っています。日本だって人種差別、性的差別、極右等々・・他国と同じように多くの社会問題を抱えているのですから。一歩作品に踏み込もうとすると起こる、こういった過剰な拒否反応についてどう思われますか?

ージュリアン 公的な場やメディアで自分の愛する作品について語られることを好まないファンは一定数いると思います。そうですね、彼らは作品のスペシャリストです。その作品を読み解く鍵を握っているのは彼らであり、外部の人間であってはならない。おそらく自分の作品観や個人的に大切にしている領域を他者に侵されるのを恐れているのだと思います。家族でテーブルを囲む時間みたいなものです。夕食の時間を楽しみたいのであって、終わりのない左右の政治議論で台無しにしたくない。それはよく理解できます。イデオロギー抜きにリラックスして映画やマンガ、アニメを楽しみたいという願いは否定されるべきことではないです。ただ、僕らの分析だって禁止されるべきではないと思っています。僕が専門とするカルチュラルスタディーズでは、まさにそういったポップカルチャー作品を政治社会、権力構造やメディアといったコンテクストの中で読み解く試みです。そういった試みに気後れは必要ありません。

ールシー ポップカルチャーだからと言って、分析してはいけないというわけではないですよね。

ージュリアン ええ、むしろ逆です。なぜならポップカルチャーこそより多くの人々に関わるものだからです。『進撃の巨人』を視聴する何万、何十万人という人々に関わるのです。解釈や分析を共有し、議論をより深めていきたいですね。

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