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スペインでホームレスを見て感じたこと

イギリスでの留学開始から3週間が経ったときに初めてスペインに旅行に行きました。そのときに感じたことをまとめたいと思います。

バルセロナに行ったときに、頭を地面につけてほぼ倒れるような格好で手だけ上に向けてお金を受け取れるようにしているホームレスが5-6人くらいいるのを見かけました。

通行人は見知らぬふりをして目の前を通過していて、立ち止まる人は1人もいません。私は友達と一緒にいたのですが、駅を出てすぐその光景を見た瞬間、楽しく話していたのを忘れ息を呑むほど衝撃でした。


なぜ頭を地面につけているのだろうか?

もし自分がホームレスだったら?と考えると、通行人からの視線に耐えられない、お腹が空いていて座ってもいられない、屈辱で顔を上げられない、などいろんな感情が考えられるかなと思いました。
でも一番は、たくさんの人がいる中でただ素通りされることに絶望を感じてしまいそうだと思いました。しかも通行人の多くは観光客(観光できるだけの一定のお金を持っている人)なので、自分と対比させたときに苦しくなりそうだなと思いました。

素通りしかできない自分

そこに触れてはいけないようなタブーな雰囲気を感じて、友達ともその話題を出してはいけない気がして、素通りするしかできませんでした。
そんな自分が情けないような悔しいような、無力感のようなモヤモヤした感情がずっと残っていました。

でも、そのときお金をあげていたらよかったのかと言われると、そうではないと思います。
自分はそれなりに多額のお金を払ってイギリスで留学をしており、それは私の家族や自分で稼いだ大切なお金で賄っているからです。
それに自分自身がその一瞬の哀れみでお金を渡すだけでは、ホームレスを生み出すに至った構造的な課題の解決にはつながらないからです。

でも、この自分自身の考えにも違和感があります。

偽善と利他は紙一重

ホームレスにお金を渡すことが利他なのか偽善なのか、についてはさまざまな意見があると思います。

ただ、ホームレスにお金を渡している人は利他心で渡していると思いますし、実際ホームレスの方もお金を渡すことで喜ぶと思います。
もちろん、それは一時的な緩和策であって根本的な解決にはなりません。でもだからと言って、全ての人がお金を渡すことを「偽善」であると考えてしまうと、その間にホームレスはお金が尽きて生きることができなくなってしまうかもしれません。

根本的な解決にはならないから、という理由でホームレスを見て見ぬふりをする自分は、結局のところ根本的な課題の解決に取り組んでいるわけでもなく、ただ見捨てただけになるのではないかと思ったのです。

そもそも根本的な課題の解決とは何か?

ここで根本的な課題の解決とは、ホームレスを生み出すような構造的な課題の解決を意図しています。それは労働、教育、経済など多岐にわたります。
しかし、それら全てを改善しホームレスが1人もいない世界を実現することができるのか?と言われるとそれは極めて難しいと思います。なぜなら、貧困は何百年何千年と続いてきた歴史の中で一度もなくなることはなかったからです。
もちろん、世界で絶対的貧困率が下がっているというデータはあります。しかし、その課題の解決に力全力を注いだとしても、政策の効果が現れるのは数十年単位の時間がかかり、少なくとも自分が生きているうちには、ホームレスが1人もいない世界を実現することは難しいと思っています。

根本的な解決を目指したい人と目の前の人を助けたい人

結論、お金を渡したければ渡せばいいのではないかというのが自分の意見です。
だからと言って、お金を渡さない人を責めるわけでもなく、その行動が根本的な解決につながらずナンセンスだと思うのであれば渡さないというスタンスも筋が通っていると思います。
でももしお金を渡すことが偽善だという人がいるならば、偽善ではない方法で(根本的な課題の解決につながる方法で)何か行動しているのか?と聞きたいです。何も行動していない人が行動している人に対して「それは偽善だ」と言っているだけでは世界は変わらないと思います。

根本的な解決を目指したい人もいれば、目の前の人を助けたい人もいていいと思うのです。

まとめ

ちょっと悲観的な内容も含まれてしまいましたが、自分は世界をより良くする方向に貢献したいと思っていますし、ホームレスが生まれない世界を実現したいと思っています。
でも本質的なところにこだわりすぎると、目の前のものが見えなくなってしまう危険性があるのではないかと感じました。

結局正解はわかりませんが、自分が正しいと思った方法で行動するしかないのだと思います。















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