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【過去記事/番外編】20111014 ナルシストには二種類いる

今週1週間、実に低迷期だったなという自覚がある。
沈殿する水の濁りのあたりで横たわっているような感覚の時、スマホ片手に軽い漫画を求めて読み続ける癖があると最近気づいた。
無料で読める1~2巻を気ままに周遊しながら、続きが気になった作品を気にせず課金しつづけ、とある作家のトータル3作品を読みまくった。
藤間麗という漫画家である。「水神の生贄(はなよめ)」、「黎明のアルカナ」、そのスピンオフとしての最新刊「王の獣」まですべて一気読みした。
上記の中でも「水神の生贄」が一番印象的だったが、「黎明のアルカナ」まで読んで、この作者の何が魅力なのだろうと考えれば、圧倒的に感情描写とそのモノローグが秀逸なのだと思った。少女漫画には似つかわしくなく、「裂帛」などという単語を用いるあたり、この人の言語には文学的な素養も影響している、と思った。
圧倒的な感情描写には、複雑さと孤独と人間が目を向けるのを避けがちな負の感情が基礎にある。おそらく、この作品の根っこは、「かなしみ」だ、とも。
そんな時期に友人とオンラインで会話する機会があったためか、上記のようなことを引き出されるまま話したら、野沢尚の話題を彼女が出した。
野沢尚、なつかしい。昔『破線のマリス』を読んで強い衝撃を受けた作家だった。彼女いわく、彼は名探偵コナンの劇場版のある作品の脚本を担当しており、劇場版をすべて網羅している自分からしても、それは他の作品に比べて圧倒的だ。そうして作者の名前を覚え、調べているうちに彼が若くして自死の道を選んだと知ったらしい。そして言う。

「私が惹かれる作家、みんな死んでる、って思った」

このところ、意図的に書くという作業の頻度を上げ、今までの自分では書かなかった文体や文字数を経験したら、嫌でも自分の奥底と向き合わざるを得ず、その作業から眠りの中でも逃れられないで、正直、しんどい。と思っていた。寝ているのに、頭の中でずっと言葉が巡っているのである。そしてこうも気づいた。書くことをそこそこにしていた理由は、そうなる自分を心のどこかで知っていたからだ、と。
そして、思考の傾向についての話になり、振り返った過去の文章にこれがあったと思い出した。つなげて、今、あらためて振り返る。

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――と、思う。
一つは底抜けにポジティブなタイプ。
もうひとつはどう仕様もなく自己批判の激しいネガティブなタイプ。
ベクトルは全く違う方向に向いているけれど、どちらも結局過剰なまでの自己意識からきていると思う。


確かに自分大好き!なナルシストは、その延長として自分に自信のある、何事も世の中上手くいくと考えるような、まぁ、ハッピーなイメージが強いけれど、ネガティブにネガティブに考えるタイプも、裏を返せば自分はこう見られたい、とか、自分はこうありたい、とかいう理想のビジョンが人には言わないけれど潜在的に存在していて、それを客観的に分析できちゃうちょっとリアリストな部分が障害になって色んなことを諦めたり否定したりしちゃうんだと思う。


もちろんポジティブな人がずっとポジティブとは限らないし、
ネガティブなひとに生きる喜びが全くないとは思わないけれど、


「思考の傾向」


としてそれは確かな分かれ道になると思う。
で、何が言いたいかって、私は後者のナルシストだな、ってこと。
昔から変にプライド高くて、こう見られたい、これを手に入れたい、そしてそれをさも簡単に手に入れました体で振舞いたいという、なんともぎらぎらした自意識と欲求の塊だったわけですな。


そのせいでその理想を何一つ実現させない、足りないところだらけの自分がちっとも好きになれなかったり、対人関係で衝突したり、家族関係で衝突したりしてきたわけです。


考え方がネガティブでも、その原因にあるのは実はとても強い欲求だから、いい方向に作用すればそれはそれは強い生命力なんだと思う。


昔、自殺未遂した人のそばにいた時、死を自分で手に入れようとする人のそばに居ながら、なんだか自分にとって実感としての死が遠かったこと、「一緒に死のう」と言われたら、その人をどんなに傷つけようと逃げる自分をイメージできたこと。
絶望にどっぷりはまるほど、弱くないはずと思っている。
私の言葉の道筋とは関係なく、勝手に生きようとするなにかが、私の中には備わっているんだと思っている。


生きるって、やっぱり大変なことだったと思うから。


そう考えると中年サラリーマンや中年の主婦はすごい。たくさんのお年寄りも、自分より長く生きている人々すべて、あるいは、生まれてくる新しい命そのものが。
みんなみんな、よくここまで生き延びてきたね、頑張ったんだね、と思う。嫌いな人だって、苦手な人だって、正直、なんでこいつが、って人もいるけど。
見えないところで、なにかが、複雑に影響を与えあいながら、人間は生きているんじゃなかろうか。


かつて、私の母方の祖父母は、祖父が興した会社経営に失敗し、夜逃げ状態で故郷を捨て、極貧と絶望のさなかで、一家心中をしようとしたらしい。
その時幼かった私の母と、その兄を抱いて祖母が、「子どもを道連れにはできない」と言った、ときく。


たったそれだけのことがきっかけで、私までつながってきたのかもしれない。

たったそれだけのこと。
本当にたったそれだけのこと。

今年の春、かつての同級生が自殺したと、風の便りで聴いた。
格別仲が良かったわけではないけれど、確かに同じ時間や、空間を共にした他人、近くにいた他人が、世の中から一人いなくなる。その重さが、なんだかとても悲しかった。
理由は知らない。
ただ、苦しかったのだろうとだけ想像する。
何が苦しかったのかも知らないけれど。


その子は、私の小学校の卒業アルバムにも、中学校の卒業アルバムにも写っている。


おそらく、長い年月の先には「たったそれだけのこと」と言われてしまうようなことが苦しくて、彼はこの世から去ったのだと思う。

話を戻す。
ネガティブなナルシストは、確かに生きる欲求に支えられたものだから、生命力が強いことは疑わない。
ただ、彼らの思考の傾向、つまり言葉の道筋や物事の整理の仕方が、悪く作用することがあると、自殺に繋がりやすいタイプなのではないかな、と思うのだ。
芥川龍之介とか、なんとなくそういうタイプな気がするんだよね。尾崎豊とか?なんか、勝手なイメージですけど。

自殺に、至るまでの感情の構築にはやっぱり言葉が必要だから、ネガティブなナルシストは言語表現に長けている人種でもあるような気がする。
先の読めない不安は、長い時間軸で考えれば、

「たったそれだけのこと」
言いようのない虚しさも
「たったそれだけのこと」
上手くいかないことの悲しささえ
「たったそれだけのこと」

で片付いてしまうのに、やっぱり、苦しい。

苦しみから解放されるなら死んでもいいかな、なんて魔が差したように自分の頭にふっとそんな考えが浮かぶ。
自分の感情に、言葉はなるべく与えない、それができないなら、ポジティブなナルシストになれればいいのになんて思っちゃうのだ。


そしたら、なんとかなるような気持ちになれるんじゃないかと、思っちゃうのだ。


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