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地を駆ける夕陽【4】

 家についたのは午後十時を少し過ぎたころだった。
 鉄筋コンクリート三階建てアパートの二階、角部屋のドアノブに鍵を差しまわすと、金属のかみ合わせがずれる鈍い低音が響く。
 振り返ることもなくチェーンと鍵をかけ、靴を放り出すように脱ぎ捨てて整えず、おままごとのような小さいキッチンを過ぎた。窓枠の桟に吊るしたハンガーにコートとストールをかける。伝線するかもという配慮のかけらもなくストッキングを乱暴にずり下ろし、ミモレ丈のタイトスカートのフックをはずす。ベッドの上で無造作に今朝脱がれた形のまま置かれたスウェット地の部屋着を履いて、そのままうつ伏せに倒れこむようにベッドにダイブした。
 ぼふ、という羽根布団の中の空気の柔らかい破裂音が耳に届く。
 胴体は微動だにしないまま、右腕をベッド脇の床に置いた鞄にもぞもぞと忍ばせる。内側のサイドポケットに入れていたスマホを取り出し、顔認証でロックを解除して久々にTwitterのアプリを開いてみた。意味があるのかないのか分からない玉石混交の情報を流し見しながら、ただ芸能人のアカウントをフォローしたくて登録した自分のタイムライン自体は、「眠い」とか「高校時代の友人と久しぶりに六本木で会った!楽しかった~!」とか、これこそ石ですらない、まるで塵のような内容だ。
 目的意識もなく「別れた」と打ちかけ、予測変換の画面が出ているところで我に返りおもむろに消去する。
「ひとつの終わりと、新しい始まり。」
 と打ち直して、それさえもやはり自分に都合のいい嘘のような気がして、真っ新に削除してスマホを枕元に放り出す。
 ベッドの上で体を反転し仰向けになり、なんの変哲もない白い天井を一点に見つめて美月は考える。
 私、あの人のことたぶん全然好きじゃなかった。好きじゃなくても一緒にいることはできる。けれど、衝突や激論の可能性を巧妙に取り除くような上面だけの慣れ合いでは、どこにも行けず、何ももたらすことはなかっただろう。
 いつだって浅く、中途半端な気遣いを張り巡らせて、だらしなさにも似た優しさで接する。でも決して、心を与えることはなく、互いの仮面をはがすこともない。親しさが蓄積されていく実感値を伴わないから、都度、どんな仮面で前回は接したのだろう、と逡巡して、互いの言葉が用意された他人の筋書きのように虚空を舞う。
 それはきっと、彼の時間を奪うと同時に、私の時間をも捨てることを意味していたに違いない。本当の好みを言い合っていないのに、実はともに苦手なジャンルの芝居を一緒に観ていても、その感想だって通り一辺倒にしかならないのだ。そう考えれば、互いに奪い奪われる時間が短く済んだ分、喜んでいいのかもしれなかった。
 一方で、小綺麗に整理して物事を早く片付けようとする自分に、いつもの癖だな、と美月は薄らぼんやり思う。開き切らない目でこの部屋を見渡せば、別の思いが出てくることをも、彼女はよく知っていた。

 この小さな部屋の中に朧げに宿る彼との記憶。仕事帰りに遊びに来た彼に貸し出した部屋着、冷奴や冷しゃぶ、梅きゅうなどの簡単なつまみを拵える美月、今日は暑かったね、今週は仕事忙しかった? 一緒に見たバラエティ番組、はははという軽々しい笑い、開けた缶ビールの白々しい角度のプルタブ、自分ひとりでは決して使わない、陶製の箸置き。
 映画のワンシーンを浮かべるように幻を部屋に重ねていると、どんよりとした睡魔が緩やかに襲いくる感覚に気づく。化粧を落としてシャワーを浴びよう、と美月は気怠そうにのそのそと起き上がる。
 私は明日も、何事もなかったかのように出社するのだ。しなければならないのだ。これは大した出来事ではない。些末な日常に内包された当たり前の逸話にすぎないのだから。

 翌日、始業時間の三十分前に出社すると、いつもは私が一番乗りなのに、珍しく徳山さんが先に出社していた。
 奇妙な夢を見てうまく眠れなかったポンコツの頭で、孝之が昨日のことを報告して、もう色々なことを知っていて、後輩の私にもしかして気を遣っているのかな、などと考える。
 「おはようございます」と先輩に挨拶し、パソコンを起動したり給湯室にコーヒーを注ぎに行ったりして身辺を整えた後、悩んだがやはり私からも報告すべきことのような気がして、かくかくしかじか、うんぬんかんぬん、そしてできる限り簡素に結果だけ報告し、仲介してくださってありがとうございました、と述べたところ、徳山さんは、「へえ、そう」とパソコンのニュース記事から目を反らすことなく、素っ気ない返事をした。
 構えた手前、なにやら拍子抜けだったが、その日の昼頃には、徳山さんのこの反応が、自分のことをとても慮ってくれていたのだな、と知る。たとえ本人にはそのつもりが微塵にもなかったとしても。少なくとも私にはありがたい対応だったのだ。

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