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地を駆ける夕陽【3】

 胸のあたりでだれたストールの端を首後ろにまわし、トレンチコートのポケットに手を突っ込んで、都会の夜道を一人歩く。
 駅までこんなに遠かったろうか。
 人も車も広告も雑音もこの街は多すぎる。コンタクトを外して裸眼で歩けば、この喧噪も多すぎる光もぼんやりゆがんで少しは綺麗に映るかもしれないのに。
 エンジン音や行き交う人々から発せられる意味を拾えない雑音の合間を縫って跳ね返る自分の足音に、靴の買い替え時を悟る。アスファルトをヒール5センチのパンプスで進みながら、通勤ですり減らした細い軸から、芯の金属に届くまでの距離が短くなっているような音の変化。今日はもう夜遅いから、買い物は今週末かなとだらしなく考える自分を、誰かが見ているような気がして自分の右側に視線を向ける。
 ショウウィンドウのガラスと、店内の明りが屈折して、何もかも諦めた面をぶら下げるくたびれた二十代OLがそこにはいた。

 セミロングの暗めの茶髪。髪色に合わせた眉は、なるべくきつい印象を与えないよう緩やかな曲線で表情をつくる。ブラウン系のアイシャドウを薄くおき、軽く上向きに整えた睫毛に繊維など使わない控えめなマスカラをつける。チークは、営業時代にはしていたが、事務職に転じてからはつけなくなった。去年の冬、病み上がりにマスクをして出社した際、はずしたマスクの内側に華やかな粉の色がついているのを見て、少しだけ気持ち悪いと思ってしまったのが原因か、チークをする意味がよく分からなくなってしまったのだ。店を出るときに紅を直さなかった自分の素の唇は、本来血色の悪さを滲ませる暗めの色だったのだな、と改めて思う。

 「私、今、こんな顔してんのか」
 
 気の抜けた表情のまま他人事のように美月は思った。なんの魅力も気概もない。なにが楽しくてここにいるのか、喜びはどこに置いてきたのか、これからどうしていきたいのか、と思わず問い質してやりたくなる気分だ。
 自分のひどい面持ちに気を取られ、遅れてこのショウウィンドウの先に並べられている店内の商品に目が行く。今若い世代に人気のスポーツ用品ブランドの直営店だった。閉店の時間が近いのだろう、スタッフがレジで締め作業をしている。
 店の中にはやたら白い光沢を放つ床に、プロジェクションマッピングというのだろうか、デジタル技術を駆使した立体的な映像がフロア中央に映し出されている。壁には様々なシリーズ商品が突き出た板の上に整然と等間隔で並ぶ。町の靴屋で見かけるような多様なサイズの箱の山が見当たらない。すべて在庫はバックヤードで管理しているのだろうか。行き届いた展示場。
 大きさと高さの違う円柱が空間のところどころに位置しており、ビビッドなカラー展開の最新モデルが、実際に走る姿を想起させるように曲線を描きながら点々と並んでいた。白い床に、蛍光色を思わせるピンクやブルーやグリーンのスニーカーが薄く色味を加えて鮮やかに映える。それらも自らの存在感を自覚し、誇りをもって、この無機質な空間に圧倒的な価値を表し佇んでいるようだった。
 美月は、自分から一番遠い円柱に飾られた、オレンジ色のスニーカーを厚いガラス越しに見つめる。オレンジなんて、もう何年も自分では手に取ることのない色だったせいかもしれない。
 さっき飲んだワインの芳しい柑橘系のイメージとは違う、この色は、より大きくて重たい喜びを表している、そんな気がした。

 現実世界の秒針にしてみれば、それは数秒の出来事だったのだと思う。
 だれかに見られていると思ったら、それは疲れを身に纏う平凡な会社員で、視線泳げば、その対象物は派手な見た目を自負している何かのインパクト。主張を止めない強すぎる橙。すべてを視界に入れたわずかな刹那をその場において、美月は再び帰途についた。

 人いきれに満ちた電車のつり革に手をかける、十五分ほどの乗車時間。少し前に写真のように切り取られたオレンジ色のスニーカーを頭の中で再現しながら、「大人とは 子供の夕暮れではないのか」という言葉を昔どこかで読んだ、と思い出す。
 いったいどこの、だれの言葉だったか。きっかけは、中学生の頃夏休みの課題で書かなければならなかった読書感想文だった気もする。長文の活字を読みたくはない、けれどそこそこにこなしたい自分の狡さが選んだ、図書館の子ども向けコーナーに陳列されていた詩の評論だったろうか。

 燦々とあたり一面に光あふれていた時代が、月日とともにほの暗く傾いていく。雑草やハルジオン生い茂る所有者を知らない空き地で、友人らと鬼ごっこをしているその途中。鬼は自分の身代わりをついぞ捕まえられないまま、仲間が去ったことにさえも気づかないで。
 あの頃のあの子たち、いま果たしてどこでどんなふうにしているのだろう。待ちきれないように家の玄関先にランドセルを放り投げて、一目散に空き地に集まり、あんなに楽しく無邪気に遊んでいた。十七時を告げる夕焼け小焼けのチャイムを恨めしく思うほど、夢中だった。なのに、いまはどこにいるのかも分からないくらい、離れてしまったのだ。全身で感じられた得も言われぬたしかな連帯。しかし歳月によりすり切れたつながりは、やがてそれぞれを独りぼっちにした。はぐれた糸のこちら側だけを眺めて、友達だったのかどうかも、いまはもう分からないな、などと思う。
 
 真実、良枝、久美子、あのさ、友達ってなんだっけ。みんなも、薄い氷の上に立ち、ここから動いたらあっけなく割れて湖の底に沈みそうな気がして、それでどうすることもできずじっとしているような感覚、味わったことがあったの?

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