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孤独を抱える私、または君のために

その町では、物書きは忌み嫌われていました。

人々が「これでいこう」と決めたことに対して、後から本という作品の中で、「それには、こういう観点が欠けているのではないか」とか、「あなたたちは、本当に大切なことを言っていないのではないか」とか、「それは確かにそういうメリットもあるが、代わりに未来にはこんな悪影響がある」とか、「本当のあなたは、きっとこういう人だと思う」とか、できれば隠したい、忘れたいと望んでいる、ベールで被われたなにかを明らかにしてしまうのです。人々にとって、活字は真実を告げる鋭い凶器なのでした。そして、それを扱う彼女は、まるで得体のしれぬ魔女のようにも映るのです。一体、どんな悪意を胸の内に秘めているのだろう、と。当然、人々は彼女を「変わり者」や「社会不適合者」など、分かりやすい共通の安易なニックネームを付けて避けるようになりました。「普通」や「当たり前」を子どもに教えようとするときには、比較対象としてよく彼女を登場させます。そうしてますます記号として彼女を認識することで、自分たちを守ろうとしたのです。

彼女はそのことを自分でよくわかっていましたし、彼女自身もその輪の中で暮らすことは本当に苦痛でした。なので、町から離れた森のそばの小さな家で、独りでひっそりと暮らしていました。夏にはどこまでも広がるシアン色の空に、森の広葉樹の木々が鮮やかな緑色を加えます。太陽はきらきらとさんざめき、光の粒があちこちに零れてきます。そんな世界で、彼女はゆっくりと深呼吸するのが好きでした。家はレンガ造りで歴史を思わせます。張った蔦は赤茶色のレンガと相まって、まるで大地と植物の融合を表すようです。家の中に光を取り込む大きな出窓、暖炉のための煙突、ドアの取っ手には繊細な植物の装飾が施されています。食器や家具やリネンに至るまで、彼女が一つひとつ自分で選んだことがよく伝わります。庭には草木や花々が生い茂り、ハーブがたくさん植わっています。彼女はそこから、日々花を生けたりお茶や料理に使うようです。朝はまず、ポストに新聞と手紙を取りに行きます。彼女に手紙を送っているのはいったいどんな人なのでしょう。今日は色彩豊かなテキスタイルで緩やかなデザインのワンピースを着ています。生地は肌触りがとても良さそうです。手紙の差出人を確認しながら家に戻るため踵を返すと、彼女の耳元で大振りの赤いピアスが揺れました。


彼女は、生活の必要に駆られない限りは滅多に人前に出てきませんし、住民とも交わらないため、彼女がどんな人か、人々は知りようがありません。なので、昔は都会の大貴族の正妻だったが、家が没落し夫が死んだためこのような田舎でひっそり暮らしている寡婦なのだ、とか、政治犯として国を追われた革命家だ、とか、根も葉もない噂やひそひそ話が、人々の間で繰り広げられるのでした。

ある日、いつものように朝の9時頃ポストに新聞を取りに行くと、視界の中に見慣れぬ影をとらえました。よく見てみると、遠くの原っぱに横たわる大木をベンチにして、一人の少女が虚空を見つめるように座っています。
こんなところに、子どもが来るなんて珍しい、と思いました。放っておこうかとも一瞬迷いましたが、制服を着ているし、これから午後に向けて日差しはますます強くなりそうです。彼女は少女に近づき、意を決して声をかけてみました。

「おはよう。私はHannah(ハンナ)。あなたのお名前は?」

少女は彼女が声をかけるより前に、目線を彼女に向けていました。派手な柄のワンピースは、近づいてくるのに目立つのです。Hannahに声を掛けられ、少女はもしやこれが噂の物書きか、と頭の片隅で考えながら、

「私、maiya」

と答えました。

「そう、maiya。これから私、アイスコーヒーを飲もうかなと思っているんだけど、もしよかったら一緒に飲む? ここ、そのうちもっと暑くなって、危ないかもしれないから」

そう言われて、しばらく悩んでいた少女は、それでも小さく、「うん」と答えます。この人はなぜ、開口一番「学校は?」と訊かなかったのだろう、などとぼんやり考えながら。

彼女に誘われ家の中に入ると、生けてある花やポプリの香りがかすかにします。そこ、すわってと勧められた椅子は、年期の入った木の椅子で、使い込まれた歳月が自然な艶を出していました。座面には刺繍の入ったカバーで覆われたクッションが敷いてあります。

床に鞄をおいて腰掛けると、コースターと共にグラスに冷やしたコーヒーが出されました。氷がカランとグラスを鳴らします。

「ここに牛乳とガムシロも置いておくから、お好みでどうぞ」

maiyaは牛乳を注ごうと、瓶に手を伸ばします。うちで飲んでる紙パックの牛乳じゃない、と興味深々に蓋をあけ、注ごうとしますが瓶が思いのほか重く大きいことに気づきました。両手を使って、ゆっくり慎重に注ぎ口から牛乳を注ぎます。戻すときに、少しだけテーブルにこぼした跡がまるで小さな王冠のようです。ガムシロは、悩みましたが、太るのが気になって我慢しました。甘くないコーヒー牛乳を一口のみ、対面のHannahに視線を向けます。

彼女はmaiyaに対して何も言わないし、何も訊いてきません。黙ってブラックのアイスコーヒーを飲みながら今日の新聞を読んでいます。

maiyaは、その気まずい沈黙に耐えられず、苦し紛れにHannahに話しかけました。

「町のみんなは、あなたに対して色々なことを言っているけど……」

Hannahが新聞からmaiyaへ視線を向けました。

「ねえHannah、あなたはいったい、何者なの?」

Hannahは、静かにゆっくりと、しかし彼女からは決して目をそらさずに答えました。

「私は、生きづらさを抱える誰かのために、言葉を紡ぐ物書きです。」

Hannahは続けます。

「私は子どものころから、誰かの嘘を見抜いたり、感情の揺れ幅が大きかったり、些細なことをいつまでも考えてしまう性質を持っていました。
それは、周りとは違う、ということを意味していたので、この世界や人生がずっと苦しかった。けれど、そう感じる自分を変えることはできないし、誤魔化すこともできない。そのような宿命のもと、ここに生まれました。

生きづらさを抱える誰かとは、結局、ほかでもない私自身です。私は、なによりもまず私を救ってやりたくて、言葉をいつも探しているのです。そんなふうに思っているのは、あなただけじゃないよ、という誰かの言葉を。

書く、という営みはとても孤独な作業ですが、幸い、私の周りには私の考えを引き出してくれる協力者たちがいます。”生きづらさを抱えるだれか”という言葉も、私の友人が気づかせてくれた言葉です。”世界の隅っこで生きづらさを抱える誰か、それは自分も含む、を救いたくてこの学問の門を叩いた”と。彼女は、幸せな世の中ってどういうものだろう、ということを共に勉強する仲間でした。
彼女らは、孤独な私に神が授けてくださったよき友人たちです。手紙や電話、そして時々訪ねてくれて、じっくり、何時間でも話をします。
しかし、この友人たちにも、私のいるこの本当の暗闇は理解ができません。それもまた、持って生まれた運命だと心得ています。

私は私を救うために言葉を紡ぎますが、記憶の中の本当に奥底、もっとも深いところには、決して開けない、でも捨てない、と誓った小さな箱があります。
この箱は、私にとっての最大級の悲しみと終わりを知らない暗闇です。でもこれが、自分の一部であるのならば、私は、ただ抱え続けるしかないのです。私はこの箱について、他の誰かに見せることは決してしないでしょう。これまでも。そしてこれからも。


ただ、この箱は私にとってとても大切な存在でもあります。愛は、”愛しみ”で”かなしみ”とも読みますが、私の愛の源泉がもしあるとしたら、まさにこの小さな箱だからです。この箱を捨てたら、私は誰かを愛することができないでしょう。」

「maiya、これで、あなたの質問にこたえられたかしら?」

そう言われて、maiyaはなんだかとても泣きたい気持ちになりました。今まで、自分の問いかけに対してこんなにも真正面から誠実に応えてくれたおとなはいなかったからです。

「ねえHannah、私、時々詩を書いているの。なんだかよく分からないのだけど、昔から好きで。でも友達は詩なんて興味ないし、私も誰にも見せられないのだけど、時々ここにきて、あなたに見せてもいい? あなたの家の周りには綺麗な景色がたくさんあるし、私、なんだかこの場所がとても居心地いいの。」

そういわれて、Hannahは優しい笑顔を浮かべ、こうこたえました。

「ええ、どうぞ」

部屋の中には、出窓から注ぎこむ美しい世界の光があふれています。

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