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地を駆ける夕陽【2】

 その日、退勤後に徳山さんと向かった先は今日と同じ渋谷だった。移動する道程、山手線の車内、自分からは積極的に話しかけてこない先輩にどうしていいかよく分からず、今日お会いする方はどんな方ですか? と尋ねた。まあ、高校時代の部活の後輩だね。おいくつの方なんでしょう? 学年一つ下だから、今年三十四かな。 と、一問一答集のような会話をしたことを覚えている。
 何の部活だったんですか? とかぶせたところで、最低限の答えしか返ってこないなら、その先も続かないだろう。もう細かいことは事前に情報収集しなくていいか、と思い留まり口をつぐんだ。
 先輩もそれを悟ると、黒一色の無機質なカバーを付けたスマホを取り出して、左手をつり革にかけたまま、黙って何かの情報を眺めていた。十五分ほどの時間を、あんなにも居たたまれず、そして長く感じたことは久しぶりだった。

 渋谷に降り立った後、先輩に導かれるように連れていかれたのは、確か明治通り沿いの小さな雑居ビルの二階に入っているもつ焼き屋で、紹介相手の孝之はまだ着いていないようだった。
 席に案内されおしぼりで手を拭きながら、「本当はもっとこじゃれたところがいいのかなと思ったんですけど、なんか、肩ひじ張るかなって。それに個人的にこの店気になってたんで」と、先輩はその店の選定理由を明かしてくれた。
 いえそんなどうぞお気になさらず、私嫌いな食べ物とかありませんし。と気を遣って返すも、先輩はそんな社交辞令は無用とばかりに関心がないようだった。数量限定のおすすめ串のメニューを手にしながら、壁一面に貼られた黄色い長方形の型紙の上に雑な字をマジックで載せた、食べ物の名詞の羅列を目で追っている。
 書かれた時間の古いそれは、脱色した色味の上辺に、うっすらと茶色い歴史を刻んでいた。
「自分は食べたいもの頼むんで、橋本さんも気にせずに好きなもの頼んでください。あと、自分煙草吸いますけどいいですか?」
 ええ、はい、どうぞと応えながら、美月は自分の左端に二つ重ねられた薄いスチール製の深さある灰皿を一つ差し出す。
 煙草を吸うひとだったのか。歓迎会の時、あの場の参加者は部長以外にはだれも吸っていなかったはず。切り取ったシーンを思い起こす。
 どうも、とこちらを一瞥さえせず先輩は答える。自らの意思をただ淡々と告げるキツネは、うまい言葉が見つからないが、もしかすると信頼できる存在なのかもしれないと美月は思った。
 人間界に溢れるあらゆる欺瞞や不文律の掟を察知し、そこに自らを沈めながら、実は信頼できる人間であったという過去の事実さえも隠すために、あえて人間社会の中でキツネの姿をして暮らしているのかもしれない、とも。
 人間としてではなく、キツネとして生きることをこの人に決意させたのは、いったいどんなきっかけだったのだろう。

 約束の時間二分前くらいに、紺色のスーツ姿に薄水色のストライプ柄のネクタイを締めた男性客がひとり、チリリンと扉の鈴を鳴らして入店する。
 身長は一七四センチほどだろうか。最近散髪したのであろう、襟足を短く切りそろえた清潔感漂う髪型と、自然体な清々しさに、この人こそ得体の知れぬ安定的な社交性を武器に生き残っていけるタイプだと、美月は思う。 
店の奥の座敷やカウンターに目を配らせ、誰かを探しているその様子を見て、もしかしてこの人が今日の待ち合わせ相手かな、と美月は察する。
 案の定、徳山さんを座敷と反対側のテーブル席に確かめると、居場所を見つけたように無邪気に笑ってこちらに近づいてきた。
「すみません、ぎりぎりになっちゃって」
 彼は無垢な笑顔のままバツ悪そうに私に目をやる。
 これが私目線による、私たちの出会いだった。

 この日どんな話をしたのか、正直あんまり覚えていない。
 ただ、初めての場所で知り合いを見つけた時のその表情が、ひどく印象的だった。悪意とは無縁の、けれど現実との折り合いをその来し方から良く分かっている、大人と少年の間のようなひとなのかもしれない、と思った。
 先輩との高校時代の思い出。学生時代に所属していたサークル。職場の話。保険の営業ですか、大変そうですね。私も異動する前は、営業やっていましたよ。お酒は飲む方ですか? 次何にします? 何か食べられないものはありますか? ご趣味は何ですか? 休日は何して過ごしていますか? 以前お付き合いされていた方はどんな方でしたか? 長年お付き合いしていたと伺いましたが、どうして別れたんですか? 
 最後の二つの質問は、しなかったかもしれない。いや、きっとしていないだろう。短時間でその人のことを知る質問なんて、ないよな、と美月は思う。
 互いに探り探りではあったが、嫌な思いはしなかった。緊張のせいでぎこちないところも少しはあったかもしれない。だが、彼と次に進むことはやぶさかではなかった。なんというか、スムーズなやりとりだな、と思った。
 孝之もそう思ったのかもしれない。その日交わしたチャットツールのアプリのアカウントから、帰宅して一息つく頃には、もし橋本さんさえよろしければ、またお食事でも行きませんか? とメッセージが届いた。 
 私は知っている、これは、乗るか乗らないかを試された、始まりのサインだ。


 「美月は本当に優しい人だなと思っているし、自分にはもったいないくらいいい人だと思う」

 今が夜であることを無視した白昼夢のような回想から、彼の声が私を現実に引き戻す。そういえば今日、あなたはあの日と同じネクタイをしている。
 いい人、か。なんて便利な形容だろう。コインの裏側はどうでもいい人。
 そして、頭の中でこんなことを静かに考えている自分が、本当に優しいとは私にはどうしても思えないのだった。
 「でもたぶん、このまま一緒にいても、うまくいかないと思う」
 強くはないが淀みなく発せられたその台詞を聴いて、彼はたぶん自分に正直で、そして自分を大事にできるひとなんだな、と美月は思った。
 ひょっとして最初から、あるいはずっとそうだったんだろうか。
 いや、もしかすると、私が彼のそうした一面を引き出したのかもしれない。
 虚しさを写す鏡として彼の前に立つことによって。
 「そっか。うん、わかった。今までありがとうね。楽しかった」
 自分は長い間、この人にこう言ってもらうことを心のどこかで待ち望んでいたのではないかとさえ思った。だからこそ、対する私の答えも流暢なのではないか。あるべき本来の状態に、ようやく還ってきたような、しっくり、とても静かな凪が心地良くさえ感じる。恬淡って、もしかしてこういう気持ちを言うのかもしれない。
 「うん、ごめん。こちらこそありがとう」

 悲痛な微笑から少しほっとしたように答える孝之の言葉に、しばし会話が途切れる。
 その珍妙な静寂の中、アルバイトらしき茶髪の若い男性店員が、先ほど注文したマッシュルームのアヒージョとバゲットをテーブルに置く。「お待たせ致しましたー」と無駄に語尾を伸ばすだらりとした語感の残響が、その店員の耳にいくつも付けられたリングのピアスの揺れと相まって、ぐわんぐわんと美月の鼓膜に居座った。

 正味二時間くらいの会食だっただろうか。
 ワインも食事もどれもまあまあな美味しさで、でも決定打がない。美味しいといえば美味しい、でもまた来るかと問われれば微妙だった。
 一人でファミレスに入る時と大して変わらない感覚。なにを選んでなにを食べても一抹の感慨さえない。
 店員を呼びつける横柄なベル音、卓番の電子表示、ドリンクバーで細かい氷を注ぐ轟音。色彩調整を施したやけに明るい写真ばかりの薄い紙質のメニュー、税別とカッコ書きされた値段、昨今の健康志向に配慮したご丁寧なカロリー表示。
 そんな優しさ、本当は誰にも望まれていないんじゃないか、と美月は疑う。 
 私、本当は、何にも気にせず、何にも縛られず、美味しいと体が求めるものを食べたい。少量の毒がいったいなんだというのだろう。待たせちゃいけない、不愛想ではいけない。でも私、そもそもそんなに清廉潔白を貫いて生きているのではない。丁寧に接されることは、同等の親切を返すことを暗に要求されているようで、互いの関係性を控えめな束縛と応酬に閉じ込めているようにも思える。
 そしてはたと気付く。もしかしてこの人も、私と会って食事をするたびにそんな気持ちになっていたのだろうか。望まない優しさは、真綿のように柔らかいが、徐々に呼吸ができなくなる。虚しさを写す鏡でしかないのに、その責任を負うこともせず、じわじわと窒息させる義務感の善意。それはきっと、あなたでなくてもとても苦しい場所だったろう。

 「じゃあ」

 利用する路線へ通じる地下通路入り口の階段前で、立ち去る彼の背中をしばらく目で追っていたら、次第に小さくなっていくそのシルエットに、無性に謝りたい気持ちがこみ上げる。どうしてそんなに色々なことに鈍いのだ、と呆れたため息を吹きかけるように乾いた風が美月の頬を撫でた。もうじき冬がやってくる気配がする。私も早く家に帰ろう。こんな懺悔をしたくてたまらない気持ちのまま、いつまでもここにいたくない。

 冷やした白ワインでなく、常温の赤ワインにすれば良かった。内臓の底に薄い氷の膜が張っている。

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