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夕暮れの柴犬、茶トラ、白い犬。

夕暮れどき、近所でよく見かける柴犬の子犬がまた一回りデカくなっていた。ぷりっと引き締まったもふもふのお尻を惜しげもなく晒し、その上にはご機嫌なしっぽがくるんと丸まっている。ときどきご主人の顔を見上げながらぴょぴょぴょと跳ねるように歩く。私は後ろからそのかわいらしいお尻を眺めながら幸福のおすそわけをいただく。尊い。

人間と暮らしを共にする生きものは尊い。猫も犬もハムスターもうさぎも、人間たちのあいだで巻き起こるさまざまな問題からは一線を画して(時として人間の身勝手による不幸な影響を受けるが)、そのまあるく愛らしい眼で主人たる人間を見上げ「ごはんちょうだい」と語りかける。打算などとは無縁の純粋無垢な「ごはんちょうだい」の視線に、われわれの心臓はきゅんと縮み上がるのだ。これを尊いと言わずして何と言おうか。

また別の散歩中の犬とすれ違った。おそらくお年を召したラブラドールかそれに近いミックスで、ご主人のほうもそれなりにお年を召していた。1人と1匹が手と手(リード)を取り合いゆっくりゆっくり橋の上を歩いている。彼らは橋の真ん中あたりでふと立ち止まり、犬もわかったようにスッとおすわりをして、夕焼けの空を眺めた。

ご主人がおすわりした犬の背中をぽんと軽く叩く。すると金色の毛がはらはらと落ちてゆく。ときには塊になって綿毛のようにほわほわ舞い、夕日に照らされて美しく輝いた。彼らは抜け毛まで尊い。

いいなあ、と思う。

私には動物と暮らした経験がほぼない。正確に言うと金魚が2匹いた。お祭りの屋台の金魚すくいでお兄さんが小さなポリ袋に入れてくれた2匹。赤っぽいほうをりんご、オレンジっぽいほうをみかんと名付けた。しかしすでに弱っていたのか、水槽に移してすぐ病気にかかり2週間ほどで死んでしまった。ペットと言えるのはその2匹の金魚だけだ。

その反動なのか、大人になった今、愛猫や愛犬との暮らしが羨ましくてしかたがない。私が猫アレルギーでも犬アレルギーでもなければ、今すぐペット可の物件に引っ越して保護猫をお迎えするのに(犬もかわいいけれど猫派)。

生きものと暮らすのは簡単ではないだろうけれど、きっと素敵なことなのだろう。やわらかい毛皮の下でとくとくと動く温かいいのちを想像するだけで、何かしらの癒し系の物質が分泌される気がする。知らんけど。

たくさん稼いで猫用のお部屋と高性能な空気清浄機を置ける広い家に住めばいいのだろうか。それとも「ここから見える土地、全部うちの(笑)」っていうお庭を持てばのだろうか。はたまた田舎に移り住んで、外も家の中も縦横無尽におさんぽし放題の環境があればいいのだろうか。

どうしたら私の目の前でごろりと寝ころんで、あのもふもふものお腹を披露してくれるのだろう。くしゃみをひとつ我慢して、もふもふを撫でさせてはくれまいか。

いいなあ。

そのようなことを考えながらスマホの画面の向こうの、人様のお家の猫(茶トラ)を愛でていたらくしゃみが出た。おまえにはまだ早い、ということか。いやはや。


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竹野まいか
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