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【エッセイ】苦しみが足りない

 バイトの後で長い散歩をするようになった。最近はバイトでもけっこう身体を動かすのでバイトが終わる頃には一万歩くらいは歩いている。それにさらにプラスして一万歩くらい歩く。いつもの散歩コースは五千歩くらいで、それを二周することにしていた。

 なぜ、そういうことをするようになったかというと、ある木曜日、バイトが終わって、なんとなく気分が塞ぐので、はま寿司に寿司を食べに来た。いつもはスシローに行くけれども、最近、スシローが混んでいるので、この日ははま寿司にすることにした。
 焼酎の水割りを頼んで、寿司を十皿食べた。はま寿司の寿司はネタとシャリが分離していたり、皿に汚れが目立ったりする。味もスシローの方が上のような気がする。
 寿司を十皿食べても足りなかったのでミニ天ぷらうどんを食べた。それで合計金額が二千円くらいになった。まだ、気分が塞いでいた。もっとドカ食いしたい気分だった。頭のなかで松屋に行くか、コンビニでなにか買うか考えた。自分は自分を痛めつけたいのだという気がした。自分で自分を痛めつけるなら、やけ食いもいいけれども、それだと太るので、ハードな散歩をしようとおもった。
 そのときから退勤後の長い散歩の習慣ははじまった。イメージでは、自分を痛めつけるために修行のように歩くつもりだった。苦しみが足りない、と言いながら歩く。でも、ぼくはわりと歩くのが得意で、いくらでも歩ける自分を発見した。いくら歩いてもそんなに疲れることはなかった。だから二万歩くらいなんてことはなかった。

 歩きながら、歩くことで痩せて別人のようになるというイメージが浮かんだ。バイトとかで、「まいたけさん、痩せたね。なにかやっているの?」と聞かれるかもしれない。その場合に、「自分で自分を痛めつけたくてバイトの後で散歩をしているんです」と答えたら、たぶん理解されないだろう。だから、もう少し一般的なかんじで「ダイエットのためにウォーキングをしているんです」と答えることにしよう、とおもった。
 でも、別に理解されなくてもいいから、「苦しみが足りないんです」と答える方がかっこいいかもしれない。

 それで実際のところ痩せたのかと言うと、太った。なぜかと言うと、たくさん歩く代わりに、たくさん食べるようになってしまったからだ。
 バイトが終わって、電車に乗って、最寄りの駅まで戻って来て、そこから散歩をはじめるのだけれど、散歩中に日高屋に寄って、から揚げ定食のごはん大盛りを食べることが習慣になっていた。唐揚げ定食は、から揚げが七個くらい皿にのっていて、マヨネーズをつけることができるようになっている。
 ぼくは三十七歳だけれども、まだ、油物で胃もたれするようにはなっていないし、三十七歳にしては見事な食欲だとおもう。鮮やかなものだ。ペロリと平らげてしまう。たくさん食べるということは普段、抑えているだけあって、とても気分がいいことだ。

 ひとことでまとめると、最近はストレスのせいで、長くてハードな散歩をするようになり、たくさん食べるようになってしまった。
 これは、おもうに、職場に変化があって、仕事にやりがいがなくなり、その反動で作業中のひとりごとが増えたり、店長にたいして腹を立てて険悪になったりした他に、健康診断が近づいていたから、ということもあったとおもう。ぼくは健康診断が近づいてくるとプレッシャーでたくさん食べたり、やたらと酒を飲むようになったりしてしまう方だ。
 きょう、ようやくその健康診断が終わった。健康診断の日は、去年も、きょうのように晴れていて暑かったような気がする。ぼくが健康診断を受けている病院は、健康診断が終わると、紙パックのお茶かりんごジュースのどちらかをくれる。ぼくは迷いなくりんごジュースを選んだ。
 健康診断のために食事を抜いていたので、餃子の王将に来て、キムチ炒飯を食べることにした。メニューに大盛りの場合のことが書いていなかったので、店員さんに聞くと、大盛りが可能だということだったので大盛りにしてもらった。餃子の王将のキムチ炒飯はおいしい。

 ところで、少し話が変わるけれど、最近、気がついたことがある。それは、ぼくのように、心のなかに寂しさを抱えているひとは少ないということだ。ぼくは、自分の寂しさを埋めてくれるひとを探しているのかもしれない。それでいろんなひととツイッターを通して知り合った。なかにはぼくを友だちだとおもってくれるひともいる。でも、ぼくは寂しいままだった。
 上手く言えないけれど、ぼくにとって、友だちと言うのは寂しさを埋めてくれるひとのことなのかもしれない。でも、いまの友だちとの付き合いのなかで、ぼくは自分の寂しさを癒すことができなかった。だから、不満だったし、ほんとうの友だちじゃないような気がした。
 それで、最近、気がついたことは、ぼくと同じように寂しいひとはあまりいないのではないかということで、その理由は、もし、ほんとうに周りにいる友だちがぼくと同じように寂しいなら、もっと向こうから来るはずだし、うじうじしたかんじになるはずだからだ。でも、実際のところは、誰も向こうからはぼくに連絡してこないし、うじうじしたかんじはしない。ぼくが電話しようと言ったり、遊ぼうと言ったりすれば付き合ってくれるけれどさっぱりしたものだ。
 心のなかに、寂しさを持っていないひとは、その寂しさを他人に埋めてもらおうと求めないんだとおもう。わかりにくいかもしれないけれども、これが最近の発見だ。だから理解し合うことができない。そして、うじうじした人間は、うじうじしていることで嫌われてしまう。

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