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【エッセイ】そんなレベルの話ではないのだ

 芸能人の合意なき性交があったのではないかと週刊誌がすっぱ抜き、連日ニュースを賑わせていた時、批判も養護も両方あったのだけど、その中で「肯定する人間はセカンドレイプをしているに等しい」という言葉を放ったタレントが「よく言った」とSNSで称賛されていた。そして一人もやもやとした感情に駆られたのだ。

 もやもやした感情の原因をもじもじと考えていた。おそらく、この必殺の言葉で議論を完全に閉じてしまったことに不快感を感じたのだ。

SNSでも情報番組でも、問いに対する答えになっている場面は少なく、話があちこちにそれ「あれ、結論は?」と思うことも多々あるし、おそらく結論など番組にとっても視聴者にとってもどうでも良いことなのだろう。

 ただ番組の中で、皆が「この場合は」とか「こういった状況では」と仮説を立てながらさまざまな状況を鑑みて、議論を行おうとしていた。もちろんそこには告発を受けた芸能人を養護する姿も見て取れた。 
 「セカンドレイプ」という言葉は、議論の場で、反論を示した者全てを「お前はレイパーだ」と断定してしまう攻撃力を持っている。
 だから、これを言われた時点でもう議論にならない。反論すればレイパーだからだ。何が良くて何が悪いのか。どうすればよかったのか。どうすれば危険の迫った人を守ることができるのか。どうすれば自分の身を自分で守れるのか。
それらの議論の余地を放棄して、全てを攻撃に全ふりした、そうただの「攻撃」 ここにもやもやしたのだ。

 そんなレベルの話ではないのだ。

 障害の「害」をひらがなで書くか漢字で書くかみたいな、そんなレベルの話ではないのだ。それを議論する間にもっと改善されるべき環境がたくさんある。誰かを攻撃して、制度に楯突いて溜飲を下げる。そのための装置に性犯罪や障害を使うのは気持ちの良いものではない。

「生きてるだけで丸儲け」が称賛されて
「死んだら負け」が叩かれるような、そんな低いレベルの話ではないのだ。
みんなが生きたいと思える社会にすることが大切で、これでは「死んだら負け」と言った人が叩かれて死ぬ。
この生きづらい社会の一翼を自分が担っていることになぜ気づかない。

と海の向こうの誰かが言っていた気がする。


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