学ぶことは、たのしい。

学ぶことは、たのしい。

「楽しく学ぶこと」は、確かに必要だろうが、あまりにそれを強調しすぎることは、結果と手段とを逆にしてしまうのではないかと思う。先に「楽しさ」が強調され(すぎ)る教育のあり方には少し違和感がある。

学ぶことは、本来たのしいものだ。「楽しく学ぶこと」は手段にすぎない。学ぶ中、学んだ先にある「たのしい」ことこそを、伝えていくのが教育なのではないだろうか。

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私は、穏やかに見られるけれど、理科のことになると(たぶん)かなり厳しい。いろんな「どうして?」「なんで?」を聴きに来る学生たち。分からないことは、学生たちが理解できるまで徹底的に話をする。途中、自分で考える時間も作ったりするけれど、苦手な学生に対しては基本私が徹底的に説明をする。科学的な考え方は、思考訓練的なところがあって、それに慣れてきていない学生に0から自分で考えさせることは、不可能に近いと思っているからだ。(ただ、その見方・考え方が、一度身に付けば、色んなところに応用ができるようになる。)

スポーツの指導も根性論ではなく、科学的な知見に基づいて行われるようになってきているように、理数科目の指導も「やればできる」「考えればできる」というものではないと沢山の学生を見てきて実感する。「主体性」という言葉が持て囃される中、反対をいくようであるが、徹底的な指導が必要な(場面もある)のだ(もちろん全てではない)。徹底的な思考訓練の先に、「主体性」があるのだと考える。

解剖学者者の養老孟司さんが、今の若い子たちは「個性」という名の下、「型」を教えらえないのがかわいそうだ、というような話をされていたのを聴いたことがある(記憶の中なので少しニュアンスは違うかもしれない)。「個性」を尊重することは、確かにいいことだ。ただ、それをかざし過ぎて、大人は役割をサボってはいないか。「型破り」も「型」を知り、それを破ることだ。そもそも知らなければ、それを破ることもできない。「型」を覚えこんだ先にきっと、自分も知らなかったような個性、自分らしさがある。

理科の「型」を教え、その「型」を通して見える世界、感じられるたのしさを経験してほしいと思う。徹底的に「型」を学ぶことで、見えてくる個性、自分らしさがあるのだ(もちろん理科に限らず、学問とはそういうものだと思う)。

学ぶことは、何よりたのしい。


#考え中 #教育 #教育論 #理科教育 #私の仕事


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