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自己肯定感ってよぉ、違うんじゃあないか?

昼下がり 虹上がり 青嵐に生まれし光

どうもマイオムです。

久しぶりにnoteを書くんですよね。Twitterじゃ文字数が足りなくなったのでnoteに書くわけです。

特に最近何かあったわけではないのだが、ここ数年の違和感についてなんとなく殴り書こうと思う。

大人になってからなのか、はたまた時代がそうなのかわからないが、やけに俗世では『自己肯定感』だの『ポジティブなんたら』だのそれっぽいようでそうでないようなステータスを目にする。

それは昔と違い、TwitterやInstagram、一昔前ならmixiやFacebookでしょうか。それらで他人のキラキラした一面を見る機会が増えたので相対的に自分の日常に陰りが見えるのが原因なのかと思ったりしないでもないが、個人的にはそこが本質でない気もしないでもない。

そもそも自己肯定感的なステータスって必要か?と思っている。

性格によってステータスが変わるポケモンのようなもので、自己肯定感を高めるには?みたいなのは何か違う気がする。

いわゆる皆違って皆いいよね!と結論付けるのは個人的には好きではないのだが、皆が同じ方向を向くことに多分違和感がある。というより、何かネガティブな自分やうまく行ってないことを自己肯定感で片付け、世の中それを高めることが必要ということに違和感があるのかもしれない。

少し脱線するが、話をしていると『まぁ人それぞれだよね』という結論で終わる会話は多々ある。
自分もたまに言ってしまう。

けれど個人的にあまりこれは好きではない。
なぜなら自分の中でそれは前提であって結論ではないからである。

人それぞれだけど、なんでその人はそういう事をしているか、なんでそういう行動に出たか。について話をしたいのにまぁ人それぞれだよねでは風情がないなぁーと思ったりする。

他人に興味が無いことが他人にとっての利になることも分かってはいるが、もっと人間について解析を行いたいじゃあないか。と思う。

話は戻り自己肯定感について。

おそらく世の中の自己肯定感高めろマンも自己肯定感なんか高くねぇだろ。と勝手に思っている。

どこか不安を抱えているから自分に自信を持とうとしてるだけだろ。と勝手に思っている。

基本的に人ができることが自分にできていない。
が慢性的な気分の波の0地点の低さを決めていると思うのだが、ここ数年ネガティブになるのは100%人間関係だと身をもって感じている。

例えば仕事でわからない(うまくいかない)ことがあっても、気軽に相談できる先輩が近くにいるだけで自分で抱え込むこともなくなる。

また、失敗したらどうしよう。。も人間関係がよければ失敗する前に確認しに行けるし、失敗してもそこまで追い詰められることもないだろう。

結局はプライドが高いか、自分はできないやつだと割りきって周りに助けを求められるか。それだけだと思う。

日常生活でもそう。
大抵は人よりなにかできないとかで気分のバイアスがマイナスに働くことはなくて、プライドが高くて周りに本来の状態を周知してもらってないそのギャップの分だけ気分の波のバイアス地点が下がるのだと思うわけですよ。

あとは劣等感だろうか。
周りはうまく馴染めているのに、自分は馴染めない。とか。
皆は楽しそうなのに自分は??と思ったり。

まぁ結局人間関係が全てで、自分はこういう人間です!と割りきれることが全てで『自己肯定感』とかいうよく分からない指標なんか問題じゃないだろうよ、なぁクリストファーロビン。

終わり
 ̄ ̄ ̄
maiomu

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