厄落としの『厄』は『役』かも? 自分を役目から解放すると生きやすくなる
『厄落とし』は『役からの解放』といった方がわかりやすい
家庭で、学校で、社会で
その場で生きやすくなるための生存戦略。
ボスや周りから高い評価を得る打算だったり、攻撃されないための防衛手段だったり。
人は知らず知らずの内に、どんどん自分に『役目・役割』を当てはめていく。
『私はどういう役なんだろう?』
幼少期
例えば幼稚園での幼児ヒエラルキーは『体の大きさ』と『気の強さ』で決まりますね(単純)
『自分は人に威圧感を与え、従わせられるタイプだ』と学習したら、なるほど、そういう役回りねとガキ大将の振る舞いをはじめ。
『自分は人に愛されるタイプだ』と学習すれば、優等生や人気者の振る舞いをはじめ。
『自分は人を楽しませるタイプだ』と学習すれば、新しい遊びやイタズラなどやんちゃな振る舞いをはじめます。
『なんでもいいよぉ』『みんなであそぼぉ』垣根なくフワフワ自由だった子ども社会にうっすら『役』が生まれてくる。
未熟な社会では意思決定の速さがモノをいいます。
自分はこういうキャラだから、こう振る舞えばいいに違いないと『攻略法』を発見した子どもを筆頭に『役の割り振り』が始まります。
小学校
学校がはじまると『成績の優秀さ』『スポーツが得意』『特技の有無』『趣味の内容』『容姿の特徴』など役の要素がふえて、幼稚園より複雑化します。
小学3年生ころから、誰がどの辺りに属するのか『なんとなく察して』いきますよね。
意思決定の早い子から『有利な役』を取っていきます。
幼稚園では単なる個性の主張でしたが、それが『役』にかわるのは『学校が競争社会だから』
影響力の高い主人公級の役、ヒロイン級の役がまず決まります。そして助演役と名脇役が決まり、あとはエキストラ。
役の割りふりと共にヒエラルキーも加速して、それぞれの役に応じた『グループ』が自然形成されます。
ガキ大将を恐れて小判鮫ポジションを狙ったり、優等生や人気者グループの太鼓持ちといった『二軍ポジション』を得ようとする子も多いです。
一軍になれず、かといって二軍ポジションも得られない(または得たくない)子どもは『三軍落ち』となり、地味で無害な背景として扱われるか、仲間はずれ・イジメを受けたりします。
教師もわかりやすい子供の方が理解&管理しやすいので、『役』をもっている子どもの方がを『ふつうの子=いい子』にみえます。
『お前はどういう役なんだ?』
『そこにいる人々にとってわかりやすい役』を持たない子は、理解不能の怪物とみなされることがあります。
扱いに困る子は『皆の結束力を高めるための生贄=悪役』にキャスティングされることがあります。
グループを超えて『アイツ変だよな!』『アイツ嫌い!』と共感できるドラマが生まれます。エキストラにも珍しく『わかるわかる』と短いセリフが許され、背景でも悪役よりはマシという安心感も得られます。
悪役は『役を美しく飾る』『みんなの役にたつ』のです。
中学校〜高校生
小学校で増えた要素に加えて『容姿の良さ=性的魅力の強さ』『トークのうまさ』『才能の有無』『裕福さ』『派手 or 地味』『将来性』などの要素も足されます。
各要素が自分にどれだけあるか?
現時点で自分は周りからどう見なされているか?
周りの人が何をどれだけ持っているか?
それぞれを肌感で察して、『多分、わたしはこういう役割・役回りだろうな』『あの子はそういう役割・役回りだろうな』と目星をつける。
そうして、中学3年までにはヒエラルキー(スクールカースト)がほぼ確定。誰に頼まれるでもなく『キャラ&ストーリー』を演じ始めます。
誰しもが意識・無意識的に『役』を請け負ってしまうんですね。
中3までに形成された『役の認識』は根深いベースとなり、大人になっても(ヘタをすれば生涯に渡り)強い影響を落としつづけます。
役が“厄”に変わるとき
役は有利に働くこともあれば、不利に働くこともある。
その時はうまく切り抜ける突破口になっても、舞台がかわればもう通用しなくなります。
脱げない着ぐるみが重荷になっても、板についたキャラ(他者からの認識)を捨てる勇気もなく、ズルズル演じ続けてしまうと…
キャラと同一化しすぎた影響で『何が好きで・嫌いか』『何が欲しくて・いらないか』本来の感性を見失っていきます
自分らしさの『元となる自分が消える』ので、ますます役への依存度が強まってしまう。
その役がすでに役目を終えていても。
老朽化した役に固執するほど厄にかわる
全身全霊で頑張って、毎日ヘトヘトになるまで努力して、頑張れどがんばれど報われない。ジリ貧の消耗線をなんとか耐えきる日々。
ひとまずの足の踏み場は確保できても、何のためにどこへ行くのかはずっとわからない。仕方がないから、人混みにまぎれる。
長いものに巻かれて、流されて。同じような筋道をたどる。
ふと、なにかもかも虚しくなるも、ゾッとして気づかないフリ。
満たされない穴埋めに『刺激の強い娯楽』や『安っぽいドラマ』を追い求め、お手軽な快楽に溺れ、依存症になっていく。
『喜びの代用品』にコストをかけすぎてQOLも急落。
感覚が麻痺して、もっと強い刺激がないと物足りなくなる、もっと激しいドラマが欲しくなる。蜜の味の不幸の方が、無味乾燥よりずっとマシだから。
キャラにキャラを重ねて『名無しの通行人』になる
他でもない人(someone)だったはずなのに
誰でもない人(nobody)になる不思議
役から自分を解放=厄落としをしよう
人は毎日、起きた瞬間からたくさんの『選択と決定』をしますが、これら小さな選択のバックグラウンドには、たくさんの計算が隠れています。
○○○だから ▶️ 〜すべき or 〜してはならない
なにかを選ぶとき、子供のころはシンプルでした。
『好きだ』から『する』
『好きじゃない』から『しない』
『やってみたい』から『する』
『どうでもいい』から『しない』
アタマで考えてませんね。肌感覚だけで決めています。
社会にもまれる中で役目・役割を見出し、役目・役割と同化していくと、選ぶ基準が変化していきます。
○○○だから ▶️ 〜すべき or 〜してはならない とアタマで考えるようになります。
それ自体が悪いわけではありませんが、原点となる肌感覚を忘れてしまうと人生が役に乗っ取られてしまいます。
役とは実在しない『キャラ設定』でしかありません。
演者が役に喰われては本末転倒ですが、残念ながら多くの人が喰われています。
なにか選択するたびに『どうして?』と自分に問いかけてみる
もし、上記のような理由なら、その選択は『自信のなさや主体性のなさをカバーするため』『不安に対処するための防衛手段』として臨時採用された役です。
人は本心からの『好き』『欲しい』で選べないとき『役』を必要とします。
一時凌ぎ、場つなぎ、間に合わせの判断基準がないと、何も選べなくなって混乱してしまうからです。
『役』に気がついたら『今でも必要?本当に?』と問いかけましょう
もし、古い役が『役立たず』になっている予感がしたら。
『もういいよ、今まで守ってくれてありがとう』と感謝で手放しましょう。
過去の役を否定してしまうと・・・
『自分は間違いを犯した・失敗してしまった』と過去を切り捨てると、似た状況の他人が黒歴史にみえてムカついたり、恥ずかしさの裏返しから選民意識や優生思想にかぶれ、ジャッジ癖がつきます。
そして無意識に『裁判官・審判の役』をかってでたりします。
不要な役をみつけたら、それを汚物のようには扱わないでください。
あなたを守るために、不器用ながらも一生懸命に戦ってきた『戦友』だと思って、おごそかに退役させてあげてください。
誰でも大なり小なり『役』は演じてます
役=悪ではありません
『役』を完全に捨てるには修行僧並の覚悟が必要。
ですが、何もそこまでしなくていいんです。
『あ、いま不安をベースに役をやってるな…』と気づいていればいいんです。
ウソからでた誠、瓢箪からコマといった諺もあるように『あえて自分らしくないことに挑戦してみる』のも楽しいですし、時には思わぬ方に人生が広がる可能性も秘めています。
要は着けっぱなしの仮面が素顔に癒着しなければOK
行動、発言、あらゆる選択の背後を意識してみる。
おもて向きの理由、うらの理由。最後に残るのは『好き』か『不安』か。
一つずつ見定めていきましょう。
不安(に対処するための)役に気づいたら
引き続き採用するか手放すか考えます。
少しずつ変えてもいいし、一気にキャラチェンジしてもいい。
ただし、役が変われば舞台(景色)もかわります。
周りの人は、あなたが『役』を変えることを受け入れられないかもしれません。
環境や人間関係、景色がガラリと様変わりする可能性があります。
同僚。友人。恋人。夫婦。家族との距離感や関係性にも、さまざまな変化が訪れるでしょう。
自他共に気持ちの整理がつかないレベルの変化は(長い目で見ればよい選択でも)ある期間は非常にキツい思いをすることになりかねません。
あまりのショックで不眠や過食、鬱になるなどのリスクもあります。
どのタイミングでどこまで変えるかは勢いや衝動にまかせず、じっくり考えタイミングを見計らってがよいです。
土台の役と派生の役
役はいくつもの層で重なっているのが普通です。
たとえば『家で居場所がなくなるのが怖いから、親からいい子といわれるように振る舞おう』という『いい子の役』が土台にあったとします。
すると、いい子の条件を満たす『いいお姉ちゃん』や『友達の多い生徒』など関連する役も派生しています。
大きな仮面ほど『根源的な不安』を隠している
『根源的な不安』とは、忘れてしまったトラウマ。癒えないまま痛み続けてる古傷です。
心の奥底に隠した傷を直視するのは、誰にとってもキツいもの。
いきなり土台となる役を抜くと、ジェンガが大崩壊を起こすリスクがあります。
大きな仮面に対処するためにも、まず積み重なった小さな仮面からコツコツ取り除いて、衝撃を軽くするのも有効です。
『役』は『スマホアプリ』のようなもの
そのスマホには元々『すき・きらい』『いる・いらない』という基本アプリだけが入っていました。
しかし、成長するにつれどんどんアプリが増えていきます。
不要なアプリを溜め込んで立ち上げっぱなしにしていると、バックグラウンドが混み合ってメモリや電池をどんどん食っていきますよね。
デスクトップは散らかってかシッチャカメッチャカ。
いらない通知がバカスカ届いて、大事な通知は見逃しちゃう。
そうすれば動作は快適になります。不要なアプリが整理されたスマホは豊かな情報をやりとりできますよね。
同じように、不要な役から解放された人には豊かな日々が与えられ、同時に豊かさを与える人にもなれます。
厄落とし・厄祓いは他人まかせにできない
一般的な厄落としって、神社で祈祷などしてもらって、ハイ!良くないものが取れました〜と保証(安心感)をもらうカタチですよね。
そんなの不可能なんです
日々の選択の裏に『役』があることに気づき、それを手放すと覚悟を決めないのに『一体何から解放される』というのでしょう?
時には気晴らしや気休めもいいかもしれません。
髪型をかえてみた時のように一時的な解放感があり、根拠がなくてもフワッと安心感を得られて、少しでもリラックスできたなら。
それをキッカケに自分と向き合う余裕がうまれるかもしれない。これを機にもっと向き合ってみようって気持ちが固まるかもしれない。
でも、それ以上の効果はない。
役の数が減ってないんじゃ意味はありません。
他人任せの厄落とし厄祓いは『別仮面へのすり替え』『小さな仮面の追加』『呪いを別の呪いで上書きしただけ』というパターンが多いように思います。
それじゃ問題を先送りにしているだけです。
役に気づくも、お祓い箱にするも。すべては自分次第です。
本当に役から解放されているかの確認
引き寄せによって反映される『現実の変化』をみて判断すればいいです。
役から解放されるほど、引き寄せが整う
役落としの効果。嬉しい変化の筆頭がこれです。
引き寄せは常に、平等に、作用する。この世の基本法則。
そのまんま(愚直に)与えてくれます。
役立たずの役を整理して(厄落としをして)いくと『心を満たす出来事』が次々起きます。しかも努力なしで自然発生します!
『なにかに導かれてる!?』と疑うほど、スイスイ物事が進みパチパチはまっていく。
『ピタゴラスイッチ』に喩えれば
ビー玉をチョンっと押すだけで勝手に連鎖がはじまって、でっかいくす玉がドドーンと割れるイメージ👉🎊✨
もともと、おまかせ自動で連鎖ができちゃう『チート機能』が入ってるのがこの世界なんです。それなのに
『スプリングや風は使っちゃダメ』
『ボールの止まってる時間をもっと短く』
『より複雑でドラマティックにすべき』
みたいなこわだりでヘタに改造して、連鎖構造が阻害されたらどうなるでしょう?
止まってしまったビー玉を進ませるために、いちいち押したり移動させたりムダな労力をかけないといけなくなります。それが役=厄の弊害。
初心者のうちは改造が役に立ったこともあるかもしれないけど『ここ最近は頑張ってるワリに結果がでないな』って違和感に気づいたなら、もう古いこわだりは捨てた方がいいですよね。
固定観念や悪習慣、思い込み、思考癖を手放す。自分を役から解放すれば、ピタゴラスイッチは(元通りに)勝手にスイスイ進み出します。
是非『ビー玉チョンからクス玉ドドーン』でラクに豊かに生きてください。
まとめ
『厄落とし』は『役からの解放』
人は知らず知らずの内に『役目・役割』を請け負っていく
老朽化した役が厄になる
本心にウソをつき続れば、引き寄せは乱れる
仮面はすべて捨てなくてもいい、ただ素顔を忘れずに
他人任せは✘ すべては自分次第
役から解放されるほど引き寄せが整う
自然栽培・オーガニック食品の生産者に還元します