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◆東京近代水道125周年 その1

東京の近代水道の歴史は、明治 31(1898)年 12 月1日に、淀橋浄水場から神田・日本橋 方面への給水が開始された時に始まり、令和5(2023)年で125 周年を迎えました。

徳川家の江戸入国後、徳川家康から家光の時代には神田上水を、四代将軍徳川家綱の時代には、多摩川から江戸に水を引くため、庄右衛門・清右衛門が玉川上水を整備しました。これらが今日の東京水道の遠い起原です。

現在の東京水道の起源は、江戸時代に整備された6つの上水にまで遡ることができます。
江戸時代に整備された水道は、石積みの水路や木製の水道管(以下、「木樋」という。)などで供給されていましたが、時間の経過とともに老朽化が進み、衛生状態も悪化の一途をたどっていきました。

明治時代に入ると、政府は衛生状態改善のために水道改良に向けて動き出し、明治31(1898)年12月1日、淀橋浄水場からの給水が開始、これが東京における近代水道の誕生でした。淀橋給水場からの給水の開始によって、東京の近代水道はその幕を開け、以後、東京の発展とともに急増する水道需要を賄うため、拡張に次ぐ拡張の100年間を過ごすことになります。

◆近代水道の創設

<東京水道の起源>
1.徳川家康入国前後の江戸
江戸は、太田道灌(永亨4(1432)年~文明18(1486)年)の支配以後、執権の 移動などで次第にさびれ、寒村となっていました。その上、海に近い沼沢地のために湿地が多く、また海浜に面していたことによって塩水の浸入がありました。
徳川家康が転封により入国した後は、旧領地から移る家臣や町人に住宅地を与えるため、湿地を埋め立て土地を確保しましたが、井戸を掘っても塩気が混じっているため飲料に適さず、飲用水を確保することが急務となります。

2.江戸上水の発展
(1)神田上水
天正18(1590)年、徳川家康は家臣大久保藤五郎忠行に命じて水道の調査を行わせ、藤五郎は約3か月かけて小石川など自然の流れを利用し水道を造ったといわれています。これが東京水道の遠い起源となる『小石川上水』で、後に発展して『神田上水』になりました。(以下「神田上水」という。)

神田上水は、水源(井の頭池、善福寺池及び妙正寺池)から取水口の小石川関口に至る間は自然河川(現在の神田川)を利用し、総延長5里(20㎞)余りで、給水区域は、神田・日本橋・大手町・京橋の一部 で、水道管の延長は7里(28㎞)余りでした。
神田川の水源発見には、内田六次郎という者に功績があったといわれています。

(2)玉川上水
承応2(1653)年、藤五郎の水道から60数年後、江戸の町の発達に伴って神田上水だけでは江戸の水道需要を賄えなくなって きました。また、様々な拡張の請願もあり、幕府は上水拡張の提言を入れ、多摩川を水源とする上水開削計画を立て、同年2月に起工、翌承応3(1654)年6月、この水道を竣工させました。これが『玉川上水』です。

施工に当たって、幕府は大久保藤五郎忠行を監督に任命、また、この地の地勢と水利に長じ、この計画を上申した町人庄右衛門・清右衛門兄弟に工事費6,000(7,500両という説もあり)を交付して工事を担当させました。
兄弟は、この功績により玉川の姓と帯刀を許されるなどの褒賞のほか、後には水道管理請負の特許を受けました。

玉川上水は、導水路は羽村から四谷大木戸に至る延長10里(40㎞)余りの人工河川 で、四谷大木戸の水門以下は地中配管となり、麹町十二丁目で、一つは江戸城中へ、一つは南北城下町へと分かれ、北廻り線は番町、富士見町、飯田町、平河町及び永田町方面に、南廻り線は紀伊国坂を下り赤坂、虎ノ門、西久保金杉、内桜田、永楽町、新堀、八丁堀、築地等に及び、通過する町に飲み水の供給を行いました。

(3)その他の上水
以上2つの上水のほか、万治2(1659)年頃には、埼玉県八条村付近から取り入れた中川の水を、亀有を経て吾嬬町から西に 向かい本所方面に給水した『亀有上水』が開削されました。続けて万治3(1660)年、四谷大木戸で
玉川上水を分水し、青山付近から麻布、六本木及び飯倉を給水区域とする『青山上水』が開削されました。
さらに寛文4(1664)年、玉川上水を下北沢付近で分水し、代々幡、渋谷及び目黒を経て大崎に至る『三田上水』が、元禄9(1696)年には玉川上水を武蔵野付近で分水し、石神井、練馬、板橋及び瀧野川を経て、更に巣鴨で分水し、本郷、湯島、下谷及び浅草に及ぶ『千川上水』が開削されました。

(4)上水の廃止
これら6上水のうち、享保7(1722)年に神田上水と玉川上水のみを残して、他の4上水が突然廃止され、明治時代まで存続したのは神田上水と玉川上水のみとなります。これは当時の儒官、室鳩巣の「江戸の大火は地脈を分断する水道が原因であり、したがって上水は、やむを得ない所を除き廃止すべきである」との提言が採用されたことによるものでした。また、上水を廃止しても、掘削技術の向上によって鑿井(掘井戸)から清浄な水が得られるようになったことや、水道維持の困難性なども理由の一つに挙げられていますが、幕府直轄領である武蔵野の新田の田用水への配慮から、4上水を廃止したのではないかという説もあります。

3.江戸上水の維持管理
江戸の上水は、ろ過は行わず、自然流下で配水をしていました。配管は石積みの水路、木樋(もくひ)、さらにこれらから分岐する引込み管などで、それらの材料として安山岩や小松石、檜や松などが用いられました。
また、管路と管路の継ぎ目、分かれ目には桝が使われ、上水に混じる砂を沈めることによって工事の際には施工場所を区切る役目を果たすという工夫もなされました。

こうした水道管路(樋線)の建設、改良、修繕等の普請修復は【組合】を定め、その費用を負担させましたが、これらの場所を「御普請場所」と称して、一時幕府がその費用を立替えて工事を行ったうえで、その8年あるいは10年後、この費用を上水組 合の持高に応じて割り当てて取り立てるという仕組みでした。

羽村から半蔵門外までの組合は水元の分だけの普請費用を負担、四谷門外から別れた下流の給水組合は、水元と江戸内両方の普請費用を負担。神田・玉川両上水とも、組合は武家方と町方とを別にし、武家方は石高、町方は小間割(地所の表間口の間数)により費用を割り振っていました。

【出典】東京近代水道125年史

玉川兄弟 東京都水道歴史館
玉川上水 東京都水道歴史館
木樋 東京都水道歴史館
木樋と井戸 江戸東京博物館


【東京都水道歴史館】
https://www.ro-da.jp/suidorekishida

次回 <近代水道の創設>に続く

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