いのち一つの存在感を思う:「娘は戦場で生まれた」試写レビュー

配給会社さんに試写状をいただいて、「娘は戦場で生まれた」という映画を観てきた。

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ジャーナリストに憧れる学生ワアドは、デモ運動への参加をきっかけにスマホでの撮影を始める。しかし、平和を根が彼女の想いとは裏腹に、内戦は激化の一途を辿り、独裁政権により美しかった都市は破壊されていく。そんな中、ワアドは医師を目指す若者ハムザと出会う。彼は仲間たちと廃墟の中に病院を設け、日々繰り返される空爆の犠牲者の治療にあたっていたが、多くは血まみれの床の上で命を落としていく。非常な世界の中で、二人は夫婦となり、彼らの間に新しい命が誕生する。彼女は自由と平和への願いを込めて、アラビア語で“空”を意味する“サマ”と名付けられた。幸せもつかの間、政府側の攻撃は激しさを増していき、ハムザの病院は街で最後の医療機関となる。明日をも知れぬ身で母となったワアドは家族や愛すべき人々の生きた証を映像として残すことを心に誓うのだった。すべては娘のために−。(公式ホームページより)

観終わった後に、どう綴ってもうまく説明できない多くの感覚が、心の中に残る。そもそも初めから、ワアドが私たちに語りかける言葉が胸に刺さる。「こんなことを世界が許すと思ってなかった」と。その後に続いていくストーリーは、この地に暮らす人々が払うことを余儀なくされた、あまりに大きな犠牲を丹念に描いていく。

既視感があるように思える、瓦礫でできた街。第二次世界大戦中のヨーロッパを描いたハリウッド映画の、徹底的に破壊された街のセットにそっくりだ。あれから75年も経ったのに、人間は、なぜ成長しないのか。

血の海。大量の赤い液体が、床に、ベッドに、ビニールシートの上に広がる。誰かの手がタオルやモップで拭おうとしてもキリがない、病院の異常な日常。

土気色の、顔、顔、顔。泣き崩れる家族の狂ったような姿、子どもの頰を「起きて!」と撫でる若い母親、「僕らの弟だったんだ、外で遊んでいただけなのに」と号泣する幼い兄弟。

そんな情景の合間合間で、映画にはシリアの人々の素顔が映る。ささやかな結婚式、幸せそうな若い夫婦。瓦礫の山を背にしてチェスをし、真顔でジョークを飛ばすおじさんたち(このシリア式ユーモアが私は好きだ)。全力で子どもを可愛がる大人。植物を植え、雪にはしゃぎ、果物を喜ぶ人々の姿。

爆撃の合間を縫って、子どもに子どもらしい時間を取り戻してもらおうと、バスに思い思いの色でペンキを塗るイベントが企画される。用意されたバスは、爆撃の標的になって黒焦げの骨組みだ。それでも子どもたちは自分たちで塗り上げたバスに乗って、楽しそうに運転手ごっこをしている。

どこもかしこも異常事態の中、人々が必死で守る「日常」。その試みの中で、1、2歳の乳飲み子・サマーの存在は、血の匂いが充満する病院の中でも、アレッポ包囲網を突破する瞬間でも、まさに「日常」、希望を大人たちに取り戻してくれているように見えた。大人と一緒にいなければ生きていけないはずの小さないのち一つ、その一つこそが大人を「人間」に引き戻してくれる。その存在感を、画面越しに教えてもらった。そして、誰かを人間に引き戻す存在が、シリアで沢山、本当に沢山喪われてしまったこと、それを止められる存在がなかったこと、私もその状況の一端を担っていたことを、いまずっしりと感じている。

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シリアの人たちから教わった、いのち一つの重さの意味が、奇しくも私の身の回りの出来事や、ニュースと重なる。今日は、相模原で起こった津久井やまゆり園での殺傷事件の初公判だった。誰かが「役に立たない」「不要」という視点は、言われた相手の価値ではなく、そう見る人間と社会の懐の浅さを鏡のように映しているに過ぎないのかも知れない。

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