維摩VS大迦葉

目連にも維摩見舞いを辞退された釈迦は、衣食住の貧著を除く行(頭陀行)を特によくする摩訶迦葉に、見舞いに行くよう指示をする。
しかし、大迦葉も同じく辞退すると申し出た。

大迦葉も、実は維摩にコテンパンに論破されたと告白するのである。

「相当前のことになるのですが、私がある貧しい村で托鉢乞食修行をしていた時のことなんですがね」
「そこに維摩さんが来たんですよ」
「その維摩さんが言うのにはね」

「あんたはね、元々大金持ちを捨てて出家してさ」
「そこから相当修行を積んできたんでしょ?」
「そのあんたが、こんな貧乏人のところで托鉢修行って、どういうこと?」
「出家しても、前と同じで、貧乏人からせびり取ろうとするわけ?」
「それにさ、金持ちの所にはいかないで、こんなところばかりで、托鉢してるの?」
「両方行かないと、平等ってことにはならないのでは?」

大迦葉の考えとしては、貧者とは過去世に貪欲があまりにも強かったために、この世において貧者とされているということ。
そう考えたので、貧者にムサボリの心を捨てさせるために、貧者に対して乞食の行をしたのである。
彼としては、どんな貧者であっても、他者に対して「施す」行を行わせる、それが来世での救済の道を与えることになると考えたようだ。

しかし、維摩は違った。
貧者も富者も、人の差別はするべきではない。
貧者のところだけで乞食をするのも、富者のところだけで乞食するのも、間違いである。
一方にだけ偏るのは、間違いなのであると言う。
ただ、何も考えず、乞食をすればいいのが大切であるということであって、そもそも、仏の心に、人の差別などはないということ理解しなければならないのだから。

確かに、差別などをするのは、そもそも仏の心ではない。
その差別がない仏の心を伝えるのに、貧乏人も金持ちも差別は不要。

「差別」ということで考えれば、金銀財宝で飾られた秘仏であっても、風雨にさらされ続け崩れかけた石仏であっても、仏は仏であり、差別などはありえない。
どちらが、立派も何も、そんな差別自体が存在しない。

そして、それを差別するのは、仏像に金銭的価値やら見栄を求める輩のみ。
仏の世界とは、全く異なる次元の世界となる。

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