第一段 いでや、この世に生まれては(1)
(原文)
いでや、この世に生まれては、願はしかるべき事こそ多かめれ。
御門の御位はいともかしこし。
竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞやんごとなき。
一の人の御有様はさらなり、ただ人も、舎人など賜はるきはは、ゆゆしと見ゆ。
その子、孫までは、はふれにたれど、なほなまめかし。
それより下つかたは、ほどにつけつつ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちをし。
(舞夢訳)
いやはや、人としてこの世に生まれたとなると、どうしても願うことが、あれこれとあるようだ。
その中で、まず、身分について考えるとするならば、帝の御位は、語るのも恐れ多い。
そして皇子から皇孫にいたるまでは、全て神々の末裔となるのであって、そもそもが人間の世界とは異なるわけで、実に貴い方々なのである。
摂政殿や関白殿の素晴らしいご様子も語るまでもなく、普通一般の貴族であっても、随身を賜るほどの身分であれば、格別な素晴らしさを感じる。
また、そのような人々の子供や、孫の世代くらいまでは、仮に落ちぶれてしまったとしても、それなりに気品というものを感じる。
しかし、それ以下の人で、家柄や器量に応じての範囲ながら、例えば時流に乗り、得意満面の顔を世間に見せ、自分では立派な人間と思っているような人がいるけれど、世の道理を知っている人から言わせれば、全く興味もなく、面白くもなんともない人なのである。
※いでや:否定やためらいなどのニュアンスを待つ感動詞。「いやはや」「いやもう」
※御門:帝
※竹の園生:天皇の御子、皇子。
※人間の種:人間の血筋。
※一の人:摂政・関白・太政大臣、内覧の宣旨を持つ左大臣。
※舎人:随身。朝廷から配属された警護の役人。
身分差別については、現代日本以上に厳しかった中世日本。
兼好氏は、その中で、天皇とその親族、貴族と舎人には一定の敬意を示している。
ただ、それ以下の身分で、家柄や本人の器量もそれほどではない人が、単に時流に乗っただけで、いつ落ちぶれるかわからないのに、羽振りだけはよく大騒ぎをするような場合には、厳しい視線を向けている。
ゴーマンな成り上がりタイプなのだろうか、そういう人間は現代日本でも、時々見かける。
そういう人間は、「金の切れ目が縁の切れ目」となりやすい。
金があれば元気がよく、なくなれば悲惨の極み。
そんな人に群がる人は、金が目的。
金がなくなれば、見向きもされなくなる。
今気になっているのは、「炎上目的」としか思えない女性タレントA。
全ての言葉が「キャンセルカルチャー」なので、末路が不安。
世の中には、「言っていいことと、悪いことがある」を教えるべきでは?
そう思うけれど、結局失敗して悲惨を経験しないと、本人は、わからないかもしれない。