マガジンのカバー画像

石仏

64
石仏について、書きます。
運営しているクリエイター

2023年10月の記事一覧

石仏の話(36)自他法界平等利益

石の柱に「自他法界平等利益」と書いたものがある。 仏様の造形はなされていない。 言うならば文字塔になる。 意味としては、「自分も他人も世界も平等に幸せになりますように」ぐらいだと思う。 まさに仏教の真髄のような言葉になるけれど、実はそれが最大の難事である。 他宗教の中には、自らの信仰に異とするもの(人間)は、「神の意に反する」のだから、神の民ではない(つまり悪に属する)ので、滅ぼさなければならないとするものもある。 神の意と信じ、他宗教の民を殺戮する。(根絶やしにするのが神

石仏の話(35)石仏を真似する猿?

以前、猿が出没する地域の人と話をしたことがある。 やはり猿が出るくらいなので、山間部に住む人だったけれど、その人が言うのには 「とにかく畑の作物を食い荒らしてしまう」 「あっと思うと、家の台所にまで入ってきて冷蔵庫も開ける」 「捕まえようとしても、動きが早いし、下手をすると襲い掛かってくるので本当に困るし、恐ろしい」 なかなか困っている様子が伺える。 「それで、駆除してもらいたくて猟銃を使える人に頼むけれど、それも難しいことがある」 「猟銃を使える人が言うのには、『何しろよう

石仏の話(34)血と涙の歴史

この現代の日本であっても、また世界においても、他人を残虐に害する行為は後を絶たない。 自分のため、自らが所属する集団のため、自らの国のためと称して、無抵抗で弱い相手を残虐に害する。 害される人の恐怖、痛み、涙は目に入らないのだろうか、心に感じるものは無いのだろうか。 やはり人の世は、血と涙の歴史。

石仏の話(33)思惟観音

頬杖をついて、いろいろ考えてておられる観音様である。 ずっと見ていると、やはり落ち着いて考えることは大事なのかなと思えて来る。 今、本来ここでやるべきことは何なのか。 ついつい衝動的に動いてしまって失敗ばかりしているではないか。 「そういうことも、あなたも少しは考えなさい」 そう言いながら、そのお顔はやさしい。 「悩むのではなく、考えるのです」 やさしい口元が動いたような気がした。

石仏の話(32)神変大菩薩

神変大菩薩という菩薩があって、役行者の別名という。 たいていは、役行者の修行地とされる場所に立っている。 ただ、中には役行者の別の姿と理解していない人が多いのか、地蔵菩薩像と同じように、よだれかけを、かけられているものが多い。 信仰に厳しい人は、なんたることか、と文句を言うらしいけれど、不思議にそのままになってしまうようだ。 役行者も、どうでもいいことは、気にしていないのだと思う。

石仏の話(31)危険な場所に立つ石仏

修験の修行をする山道など、危険な場所に石仏が立つ場合がある。 その由来は、たいていが、その危険な山道から落ち、命を落としてしまった人々の供養のため。 二度と悲しい事故が起きないようにとの願いもある。 また、その石仏を、そんな危険な場所に運んだ人も大変だったと思う。 命がけで、死者の安寧と生者の安全を祈って運んだのだから、これも尊敬すべき仏行と思う。

石仏の話(30)飢饉と妾奉公

江戸時代の東北の藩の話。 飢饉が発生し、年貢を収められなかった村から、一人の娘が犠牲となって代官の屋敷に妾奉公をすることになった。 餓死者が出るほどの飢饉でも、厳しい年貢の取り立てや、収められない場合の妾奉公を強制したらしい。 しかし、その娘としては、それを気に病み、自殺をしてしまったという。 その後、その娘の供養として石造地蔵尊を建立し、今も現存するという。 それに対して、飢饉の際に厳しい取り立てや、妾奉公を強制した藩主の墓地は荒廃したままらしい。 御仏の目からみれば、

石仏の話(29)

お寺の主要構成は、木材。 だから火災にあえば、焼失することが多い。 それでも、敷地内の石仏はかなり残る。 寺が焼失した悲しさや自責の念を、残った石仏にぶつける。 または再興の誓いやお願いを、残った石仏にしたことも多々あることと思う。 お寺の本堂などという立派な場所に収められていないけれど、仏としては何ら変わることはない。 石仏は、どんな時でも、苦しむ人の支えとなった歴史を持っている。

石仏の話(28)観音様の性別?

観音様を男性とする、女性とする、様々な立場の人がいるようだ。 しかし、観音様の根拠となる「観音経」には、三十三応身と書かれている。 つまり、拝む人に応じた姿で、その身を表す。 拝む人に対する最適の姿に変化し、願いを叶えると言う。 なので、性別論争は、無意味である。 巷の風説にとらわれると、ロクなことはない。

石仏の話(27)よだれかけに般若心経

石の地蔵尊に般若心経が書かれた「よだれかけ」がかけられていた。 すでにボロボロとなっていたけれど、判別はできる。 さて、何を考えて般若心経をよだれかけに書いてまで、地蔵菩薩に願掛けをしたのか。 願いはかなったのだろうか。 般若心経の言わんとするところから考えれば、願をかけることそのものが、執着や煩悩だと言われそうな気がするけれど。 ただ、そんな人々のいい加減さを受け入れてしまうのが、御仏の世界なのかもしれない。 どんな形であれ、御仏に面し、一筋でも光明を感じること。 一筋で

石仏の話(26)くずれかけた地蔵尊

くずれかけた地蔵尊、長年の風雨に耐えてきたのだろうか。 それでも、「願掛け」の意をこめて、「よだれかけ」を首から下げ、新しい花が備えられている。 見た目がどんなであっても、御仏は御仏。 絢爛と輝きながらも秘仏とされて見ることができない仏と、実は何ら価値は変わらない。 それを感じるかどうかで、崩れ落ちた地蔵尊に手を合わせられるかどうかで、人間の器量も異なってくるのかもしれない。

石仏の話(25)双体像

阿弥陀如来と観音菩薩の双体で石仏を造る場合がある。 親夫婦の供養で造る場合もあるとか。 生前、それほど仲が良かったのだろうか。 あるいは、来世でも仲良くして欲しいのか、あるいは来世では仲良くして欲しいと思ったのだろうか。 いずれにせよ、子供が供養として造る場合は、両親のあの世での安寧を願う。 これも、親子の情愛と思う。

石仏の話(24)洞窟に彫った仏

石仏の範囲におさまるかどうかは、厳密を旨とする人には申し訳ないけれど、洞窟の壁に彫った仏がある。 おそらく、仏教渡来以降、主に修行僧などが関係して、彫ったのだと思う。 経本を読むのも修行、座禅を組むのも修行、仏を彫るのも修行と考えれば、「偶像崇拝」などと非難する必要もない。 大切なことは、人が一心に懸命に仏の像を壁面に彫ったこと。 そして、その思いを感じること。

石仏の話(23)平和観音

戦時中、日本において戦死した米将兵を祀った供養仏・平和観音があると言う。 それを造った人は、自分の茶畑に墜落した将兵の霊を弔うために建てたとか。 周囲の日本人からは非難・迫害まで受けても、供養を続けたという。 個人対個人では、何の恨みもつらみもない人々が、国家や集団の命で、殺し合い殺されあう。 本当にいつになったら、人間はこの愚行から逃れることが出来るのだろうか。 観音様の悲しみは深い。 それでも、そこの観音様が立たなかったとしたらと思うと、寂しくなる。 観音様が立ってくれた