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「失敗」と名付けるタイミングのお話 #7

私は約2年前の2019年に順風満帆だと言われた人生を自ら手放したことがあった。

所謂その手放すことは世間に「失敗した」と公表する事を意味していたし、そう言われたこともあったし、若気の至りとさえ言われたし、自分でもそう思った。

その約2年前の2016年24才の時、今考えても人生の中で1番幸福なことが私に降り注いでいた。その時のインスタの投稿でも「間違いなく今までの人生で1番しあわせ!」と書いてしまうほどに。

この時は、恋愛も仕事もなにもかも上手く行っていて、「人生勝ち組ですね。」とさえ言ってもらえることも多々あって、正直良い気分だったし、世界は自分中心で回っているのでは?と錯覚したほどだった。

なのに私はそのわずか2年も経たないうちに
自ら、世間から呼ばれる「幸せ」を1つ手放した。

手放すことは簡単じゃなかった

若気の至りだとかなんとか言われたって
手放すことは全く容易ではなかった。
私さえ我慢すれば、家族もみんな「幸せ」であり、自慢の娘、自慢の"何か"でいられた。

だから私さえ我慢すれば、譲ることが出来ればと何度も考えたけど、どうしても自分の中で譲れないものがあり「世間からみた幸せ」ではなく、「自分が思う幸せ」を私は選んだ。

選択にはかなりの痛みを伴ったし、
自分の頑固さゆえに傷つけた人は多くて、
愛する人たちの悲しむ顔がなにより辛かった。

でも選べることの自由があったこと、自分の気持ちを殺さずに済んだこと、そして女性に人権がある時代に生まれたことに私は幸せを感じていた。

なにが「失敗」なんだろう?

そんな苦しい決断をしてから早2年が経った。
そういえば、「順風満帆な人生だね」とは誰からも言われなくなった。

そんなこと全然平気だった。どうでもよかった。

だって悩みに悩んで、話に話し合って決めたことだったから。
私が選んだ道だったし、世間からあれこれ言われることは想定済みだった。
なんなら想定してたよりも世間は100倍優しかった。

ふと思った。
「あれ?なにが失敗だったんだっけ?」

「失敗」なんてどの時点で捉えるか

失敗と思う出来事は、起こったその時はそう思えたとしても、長い期間でみたら全然「失敗」ではない。

何かに「気付く」ためのきっかけだと思う。

エジソンだって電球発明したとき、数え切れないほど失敗して改良したから、最後には成功したし、失敗がなければ成功しなかった。
(急に偉人の話。笑)

おわりに

ちなみに私の「失敗」と一度呼んだ出来事が、
「成功」につながったとわかるのはおそらく死ぬ時だと思う。

けど現時点においても、もうその出来事は「失敗」ではない。

その事があったから、人の優しさや人の痛みに気づけたし、その事があったから行動が変わり出会えた人たちがいる。失ったものよりも、圧倒的に得るものが大きかった。

それでも時々、パラレルワールドの自分つまり「手放さなかった場合の自分」に思いを馳せてみることがある。

1年前まではまだパラレルワールドの自分を想像することができたのに、もう今はほぼ想像が出来なくなった。
もうあの時のことは私の人生で「大きな選択をした時点」ではなく、「通過点」に変わったんだと思う。

どんなマイナスな出来事も捉え方次第だし、「失敗」と思える出来事が起きても、その後の行動で全てプラスに変えられることが出来る。

だから、どんな事も「失敗」なんて
私は絶対に呼ばない。

最後まで読んでくれたあなたに起きたどんな事も
あなたに「失敗」とは絶対に呼ばせない👍








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