P6010217オオアカマルノミハムシのコピー

完全な生きものなんていない

吉野弘さんの「生命は」という有名な詩がある。一部を引用する。

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
 
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
(…続く)

一個体で完結する生命なんていない。
みんなそれぞれ、どこかが不完全。

だからこそ、多様性に価値がある。
関係性に、意味が生まれる。
それは、人の社会にも通じる重要なメッセージだと思っている。

ツイッターで「ざんねんないきもの事典」のタイトルへの批判がよく目についてしまう。
たしかに、「ざんねんないきもの事典」の「ざんねん」という表現は、多かれ少なかれ抵抗がある表現。

「ざんねん」「すごい」「変」「かわいい」「賢い」「強い」など、生きものに対する形容詞はさまざまだが、それによって評価をしたりしなかったりするのはすべて人間の勝手だ。

「気持ち悪さ」や「弱さ」だって、生きものの戦略かもしれない。
個体としては一見「ざんねん」に見える場合でも、より広い視野で見ればそれなりの理由がある。

だからって、「ざんねんないきものなんていない」というのも違和感がある。
むしろ「ざんねんさにも価値がある」という表現が私にはしっくりくる。


「ざんねん」に見えるものの価値を伝えることは、私のやりたい仕事だ。

そもそも私は、かたつむりの「のんびりさ」のような、一般にネガティブとされる要素を好きになりやすい。
だから、「ざんねん」という表現への抵抗は人より弱いのかもしれない。
かえって共感的に好きになる人がいる可能性を考えてしまうし、ここまで流行っている以上、深く知ってもらうチャンスとしなければと思ってしまう。

『続々ざんねんないきもの事典』でも言及されているように、他の生きものから見れば「ヒトもざんねん」なのは前提である。
一個体では自然界でとても生きていけないし、子育て1つとっても一人でできることじゃない。
だからこそ、社会を作り、他者と協力し合う生き方をして、ここまで繁栄している。

どんな「ざんねん」にも価値がある。
「みんなちがうから、いい」と言ってもいい。
そんなメッセージ自体は重要。

問題は全体として「ざんねん」の価値、その先にあるメッセージを伝え得る本になっているかどうか。
そうするための批判は、たくさんあったほうがいい。
今後出てくる本が、より良い本になるように。



(というか、そんな価値を伝える本を、著書として書かなくちゃ…。)

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