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何に触れて生きるか、どんな人と出会っていくかの重要性

急に思い出したこと。

を、書き出そうとしたけどその前に。

わたしは男女の違いとか、女性蔑視について言いたくて書いているわけじゃなく、
ここから先に書きたいと思っているのは、「社会の風潮でつくられてしまう当たり前の恐ろしさ」みたいなこと。

大事なのは子供のころにどんな考え方に、どんなアートに、どんな大人に、どんな仲間に出会うかだと強く感じているということ。
(「地球が壊れる前に」という、「不都合な真実」のレオナルドディカプリオ版をみてからこれを強く感じている。大好きな映画を、キッズたちにも積極的に伝えていこうと思った)

こんな前置きをしないとな、と思うことにとてつもなく窮屈さを感じているけど
こういうことを先に書かないと伝わらないなら、読むことにたどり着いてもらえるのなら、伝えといたほうがいい。と、最近は思う。

以前飲み会で「◯◯の彼女呼べよ!」「俺たちと飲むの楽しいだろ!」という会話があった。ちなみにその彼女はめちゃくちゃ美人である。

その後、「あの発言がすごく嫌だった」と、同席していた男性に伝えた。
すると、「そうだよね。あなた達別の女性もいるのに、可愛い別の女性呼ぼうとかそりゃ嫌だよね。」と。
ちがうちがう、そうじゃなぁいと歌いそうになった。

「彼女呼べよ、っていう言い方が嫌だ。楽しいだろ!っていう発言ももちろん嫌だ。彼女は彼の所有物じゃない。ひとりの人間。彼もそんな言い方されて不快だったと思う。
何より呼べよという発言がそもそも信じられない。一緒に飲みたいなら、単純にお誘いをすればいい。」と、伝えた。
相手方は「仰る通りすぎる」と理解してくれたので良かった。

しかし、こういう認識の齟齬があるのか、と、びっくりした。
「え、嫌がってると思うの、その部分なの?」と。
この出来事はわたしの中で大きかった。
「嫌がるポイント」にそもそも認識のズレがあるのか、と。
そしてこの発言を受けて、人生の中で感じてきたさまざまなモヤっとした瞬間を理解した。

「可愛い別の女性を呼ぼうと言われるのが嫌だよね」
という発言自体が、わたしの思想や容姿を見下していることになることすら、その人は気付いていないことにも驚いた。
人によってもちがうと思うけど、わたしは「酷く侮辱されてる気分だなぁ」と思った。
同時に「本当に悪気がないんだな」と思った。
あまりにナチュラルに飛び出した発言だった。
なんなら気を遣ってくれていた。

こりゃあわかっちゃいたけど根深い問題だよなと感じた。
だってそれが当たり前の世の中なんだから。
その人たちが悪いというより、それが「当たり前」になっている世の風潮がある。
そういう発言が当たり前にたくさんされてきたのを、自分自身も知っている。
その中で育っている。

こういう出来事があると、より「IMPRO KIDS TOKYOがんばろ」という気持ちになる。
目の前の人も、それが当たり前になる歴史を積み重ねてきている。
その人だけが悪いわけじゃないんだよね、と、いろんな瞬間に思う。

出来ることは最小限かもしれないけど、年齢、言語、性別、色々なことの違いがあれど
それぞれに感情があり、歴史があり、家族があり、積み重ねてきた時間があることを、いつでも思い出していきたい。

わたしはそれを映画や演劇に教えてもらってきた人生なので、その方法しかわからないけれど。
「何に触れて生きるか」「どんな人と出会うか」は、とても重要なことだ。

触れてきたもので、視点の角度はかなり変わる。

そう感じていることを、キッズたちと共有していきたいなと思う。

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