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サムライ!新撰組の強さの考察~池田屋事件~ 

新撰組。局長、近藤勇、副長は土方歳三。微笑みの天才美少年・沖田総司、永倉新八、etc

幕末最強のサムライといわれた新撰組だが、何がすごいか?
個人的な感想ですが、何が?について言わせていただく。
剣道がめっぽう弱かったことである。
強いのではなく弱いんです。
多摩の田舎剣法は防具をつけて江戸の花形の千葉道場や柳生道場と他流試合をすると無残に負けまくった。
剣法が洗練されておらず都会の華麗な剣さばきに、なすすべもなく負けた。

※ところが鞘を抜き払って真剣になるとめっぽう強かった。
名門道場の華麗な剣術使いは白刃の抜きあいの乱舞となったとき、新撰組には勝てなかったのである。

新撰組は素朴な流儀の為に真っ直ぐ素朴に撃ち下ろす。そしてかわしたり逃げる技巧があまりない。
そして田舎者の度胸なのか、動揺がない。
これに相手は飲まれてしまうのである。

◆池田屋事件

当時の京都は長州。潤沢な藩の資金を使い土佐などの浪士を集めつつ、朝廷、ほか他藩との間で政治工作を盛んにしており高吟放歌しながら我が物顔に闊歩していた。いわゆる桂小五郎、武市半平太、吉田稔麿、久坂玄瑞、あるいは坂本といった不逞の輩である。

新撰組がつかんでいた情報は、桂小五郎を首領として、天皇の奪取や京都への放火等々の計画だった。
それが事実だったのかは文献では証明されていない。

ともかく新撰組はそう思っていた。30~40人の長州の志士や浪士の会合が穏やかなはずはない。
その場をつかもうと日々探索と捜査を続けていた。

◆「長州や土佐は多数で池田屋にいる」

京都探索中にそれに気づいたのは近藤隊だった。沖田総司、永倉新八、ら7人。しかし池田屋にいる相手は3倍以上。
普段の新撰組は今の警察のように多数で囲むが、機会を逃したくない。

全員、局長の近藤勇の目配せにうなづいた。
入隊前は道場やぶりを生きがいとしていた永倉新八を先頭に大声をあげてドアを蹴破るように入った。

旅館だったために階段廊下は狭く、慌てて反撃する浪士たちだったが、広くないために囲めない。後ろから押されるように前面に立つ志士。
その目の前には近藤や沖田がいる。一対一となる。

新撰組は極めて素朴な多摩の天然理心流の流儀。
たたひたすら座った目つきで振り下ろす。
小手→面→銅!などとはやらない。
気後れや隙を見て一閃で薙ぎ払う。
新撰組は奥座敷に踏み込むほどに少数にもかかわらず押しまくった。

◆新撰組に異変が起きた
沖田が持病の結核発作が出て戦線離脱し、。永倉は頭部に傷を受け、離脱気味になった。少数の新撰組はさらに少数になり、形勢が変わった。長州や土佐が押し込みだし、新撰組は引き算的に全滅の危機に陥った。

もはや力尽きたか?と思われたとき、洛中の大騒ぎで駆け付けた隊がいた。
土方歳三や実力は新撰組筆頭といわれた伊東甲子太郎らの12人である。

以降は新撰組がいっぽう的に圧倒し、獅子奮迅、一網打尽の勢いであった。
もちろん先陣の近藤隊は全員血まみれである。刃もボロボロ。

さらに逃げ回る志士や浪士を町を手分けして追い詰めていった。
この事件。長州の防具をつけた剣道の名手や与太話の水戸学を叩きこまれた俊英たち、ここで亡くならなけば明治に活躍したはずの志士が無念にも多く斃れた。長州にとっては大打撃であった。
まことに惜しむべきことである。痛憤の想いにたえない( )

この事件により 京に新撰組あり! と京都で一躍大有名になった。

。。。以下参考

どんな対面対人スポーツでも、最初のトリックプレーやフェイントはどんなにレベルの高い人でも引っかかる。
何度かやられている内に 五回七回とやられている内に相手は合わせてチューニングしてきますが
白刃の場合は一度引っかかれば真っ二つの死体ですからねえ。修正することはできない。

●フェイントは強く足を踏みこみ、しかし動きは小さい。
●つられた相手の隙をサクッとつく

剣で言うそれがどんな動きなのかは皆目わかりませんが、同じ理屈だったはず、と想像します。
こちらが落ち着いている事、相手がフェイントやトリックに敏感に反応する事、このふたつがそろえば、時代劇の斬りあいの様子のあれと同じになると想像します。

剣道では連戦連敗の新撰組は鞘を抜き払い、白刃になると部類の強さだったのである。


左が土方歳三 右が近藤勇

ただこの話が何かの後世の教訓になるのかは不明です。

強い人は怖がらない人だ というのはいえますね。

では

何かの形で社会に還元します。あるいは次回の無料記事に。でも水準保証の返金付きですから安心して、胸躍らせてどうぞ。