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墓標の幸福

米国に住んでいた頃、娘の保育園のそばに、Mount Auburn Cemeteryという古くて美しい墓地があった。もともとそういう地形だったのか、小高い丘になっていて、秋になると美しく紅葉する大きな木々の植えられた、歩けばちょっとしたハイキングになる自然豊かな墓地だった。一番高い場所にある展望台を目指して家族で何度か訪れ、それから一人で墓地を案内するツアーにも参加した。


心に残るツアーだった。「死者と生きている人が語らう公共の場を作る」というのが、墓地を設計した園芸師の意図だったそうだが、そのことを十分に感じることができた。木々の間を吹く風が、墓地全体を優しく明るく包んでいて心地よかった。小さな家が一軒立ちそうなほど広くとられた区画にそれぞれひっそりと佇んでいる墓標は、墓標というには立派すぎるほど意匠を凝らしたものばかりだった。スフィンクスの形をしたものまであったけれど、死者への寛容さ故か、それともその悠々とした環境のためか、奇抜さを揶揄するような気持ちは不思議と湧いてこないのだった。


広い区画は一人用というよりも、家族単位であるらしく、大きな墓石のそばに、小さな墓石がぽつぽつと置かれていることがあって、それは幼くして死んだ子どもであろうとのことだった。親がこの石を抱いて泣き濡れたこともあっただろうかと胸が痛んだ。しかし、そうした小さな墓石のなかにはペットのものもあるかもしれないということで、ペットを飼ったことのない私は、少し複雑な気持ちにもなった。この墓地に人間以外の動物を埋葬してもよいかどうかが議論になったこともあるのだと、案内の人は言った。議論がその後どうなったのかは、聞きそびれた。けれども、まあとにかく、どこかの家庭で大切にされた犬や猫が、死んだ後にも大切にされたということなのだった。


ここにある墓には、死者の幸福が表されていると思った。いつも幸福だったわけではないだろう。死んでまで並んで眠りたくはない、と本当は思っていた夫婦もあったかもしれない。それでも、そこにはあらゆる不幸を腐葉土の下に柔らかに飲み込んでしまうおおらかさがあった。そして幸福とは、そのようなものではないか、と思った。つまり具体的な諸々の不幸を包み込んではじめて感得し得る空気のようなものなのではないかと。


雨に打たれて形を変えつつある古びた石の標が、かつての誰かの幸福の空気を嬉しそうにとどめていた。その中を歩いた時間のことを、ふと思い出すことがある。

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