小塚舞子

小塚舞子

最近の記事

高知と私と、暮らすこと

2024年の夏のはじまりに、私は家族と一緒に高知へ移住した。初めての高知で、初めての海外旅行くらいカルチャーショックを受けたのが約6年前。それから毎年、時には年に何回か、高知を旅した。人に会うと高知がいかに素晴らしいかをしゃべりまくり(そして毎回しゃべりすぎたと反省して)、5歳の娘には「ママ、高知高知うるさい!」と嫌われた。 高知に行くと、狂ったようにInstagramのストーリーズを更新する。おいしいもの、仁淀ブルー、おいしいもの、街角の猫、街角のアンパンマン、おいしいも

    • 私の目線と、誰かの目線

      父の入院中、印象的な出来事があった。入退院をくり返す父は、もう歩くことも話すこともできなくなっていた。病院は駅前にあったが、私の家からだと往復2時間近くかかる。感染症対策のため、面会時間は15分。受付ではタイマーを渡された。麺が茹であがったときのような「ピピピッ、ピピピッ」という電子音が鳴れば、帰らなくてはならない。今思えば、面会できただけありがたかった。けれど、電車に2時間揺られて見る15分だけの父の顔は、ただ脳裏に焼きつけるしかなく、帰り道にはいろいろと考え込んでしまった

      • 父のこと

        父が亡くなった……と、文字で書いても実感はない。昨年春に癌が発覚した。父は血尿が出ていたのを、半年近く誰にも言わなかったらしい。突然血尿を知らされた母は、びっくりして父をすぐ病院に連れていき、精密検査を受けた。腎盂にできた癌は、もうあちこちに転移していた。結果を聞くときは娘さんも一緒にと言われ、私も付き添った。父は、淡々としていた。 必要最低限のことしか話さない人だった。いや、必要なことすらあまり話さない。いつも無口で、怒るとより無口になった。一人娘にもほとんどなにも言わな

        • 仕方ないに救われる

          最後に記事を書いたのはいつだろう。 最後もなにも、たった二回しか書いていない。 「何か書かなくちゃ」とは2000回くらい思った。 誰に向けているのかはわからないけど 考えたことを文字にするのが好きだった。 しかし、ふとまわりを見渡すと 才能のある人ばかりだ。 自分が発信する意味なんてないのでは…? ネガティブなことを書き散らかすのが楽しかったのに 自分で作り出したネガティブに 完全に支配されていた。 今も「書く準備」は出来ていない。 でも私は、私が書きたいことを ただ書くこ

        高知と私と、暮らすこと

          カレーがおしえてくれたもの

          10代の頃、知り合いに連れられてカレーを食べに行った。 外でカレーを食べるなんて、その時が初めてだったかもしれない。 奈良の実家に住んでいた私は 外食といえば、ファミリーレストランやファストフードで メニューにカレーはあっただろうが、選んだ記憶はほとんどない。 いつも食べるのは、ハンバーグやドリアやスパゲッティ。 こってりしていて、作り手の顔が見えないものが「外の味」だった。 温度の感じないものの方が安心できた。 見たことのない看板の店に入るのは怖かった。 そんな私の”おそ

          カレーがおしえてくれたもの

          はじまり、はじまり。

          こんにちは、はじめまして。小塚舞子です。 関西を中心にタレントやライターとして活動しています。 2018年に女の子を出産しました。 夫はミュージシャンで、かみぬまゆうたろうといいます。 のほほんとした牧歌的な音楽に 「これは説明いるやろ」とツッコミたくなる攻めた詩をのせて ほぼ全国のいろんなとこで歌っています。 娘は絶賛イヤイヤ期。 何でもとりあえず一旦否定するターンが入ります。 着替えるだけで何分かかるねんの毎日です。 今朝は夫がお土産に買ってきたハーモニカ(なんで)を吹

          はじまり、はじまり。