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記述役としての人生

事実は小説より奇なり、の奇は圧倒的に奇跡の奇だと思っている。生きてきてわりとそういうことに出会うからだ。
正確に言うと、出会う主体は自分ではない。友達や同僚、いつかの先輩、行きつけで出会う人々だったり、何らかの接点でちょっと入り組んだりパーソナルなことを話せる間柄の周りの人々。
彼らの人生は時々、信じられないような出来事に阻まれたり、それを乗り越えた時に拓ける次の世界が予想もつかない展開になったり、これを奇跡と言わずして何と形容するかというものに彩られる。渦中にいる時の心の震わせ方や流動的な情緒は、だいたいにおいてわたしが受け止めきれるものではないが、それでも横たわる気持ちを話して次へ進もうとする彼らに少しでも寄り添うことで出来事と対峙する仲間になりたいと思うし、そうやってきた。

それは、自分の人生を淡々と生きているぶん、周りの人の時間に少しだけ入って擬似的な波風を感じているような気がして、何も起こらずのうのうと生きることに対するちょっとした罪滅ぼしなのかもしれない。
何というか、何も起こらない代わりに、周囲の人の人生の一部をわたしが淡々と記述するような役回りの人生。

直近、小学校からの親友が主人公となる人生で大きなうねりがあった。強弱はあるもののもう数年間彼女はうねりの中にいたが、なぜそれが彼女に起こらなくてはいけないのか、今でも理解ができない。

子供が極端に症例の少ない先天性の染色体異常で、それに伴い日常をアジャストしながら子供との人生を少しずつ歩んでいたその道が突然終わった、という事実。
彼女が抱いていた、この症例の先駆者として言葉や感情の発達に至るまで子供と歩むというかすかな望みは、望みのまま終わったという事実(この症例は成長速度が通常の半分くらいで、話したり感情を持ったりという年代にたどり着いた人を探せないと彼女談)。
何歳まで生きられるかわからないという子供を産んだことに対し、答えの出ない問いをずっと繰り返していた彼女は、それでも最初の連絡の文面は気丈だったし、葬儀のお花のお礼や報告もちゃんとよこしてきた。そういうことをしてると気が紛れるから、と。
今、彼女の時間はまだ止まっている。そういう時だ、ということを記録しておきたい。

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