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私はペットロスだった

今日でQuiquiが亡くなって1年が経った。

Quiquiは私が大学4年の時に一緒に住み始めたネコで、昨年の5月25日まで約20年一緒に暮らしてきた最愛の子供であり、友達であり、兄弟のような存在だった。

20年生きてくれたのだから、大往生。

そんなことはわかっていたけど、失ったあとのポッカリあいた穴は塞がることはなく、日に日に大きくなっていく塞げない穴をただ感じる毎日が過ぎていった。

ネコという生き物は好きなので、また新しい家族を迎えようか何度も悩んでは、「Quiquiの代わりはいない」「Quiquiの代わりを探してはいけない」と、亡くなったQuiquiに私だけ幸せになるのは申し訳ないと思ってしまう自分がいて、塞がらない穴にもいつしか慣れてしまっていた。

今年に入って、偶然にも家で仕事をすることが長くなり、「こんなに家にいられるならやっぱり仔猫をまた育ててみたいな」と自然と考えるようになってブリーダーさんと連絡をとった。

そこからはとんとん拍子で、赤ちゃんネコAmberを家族に迎えて今に至り、様々なネコグッズを親バカのように買い与える毎日を過ごしている。

罪悪感はどこにいったのか。

実は、Amberと過ごす毎日の中で、わたしはQuiquiが赤ちゃんの時はこの遊びが好きだったなぁとか、好きなごはん、赤ちゃんのときの鳴き方、その他沢山の想い出を毎日毎秒思い出している。

嬉しい記憶や失敗した記憶、全てを鮮明に覚えている。
思い出して懐かしくなるだけじゃなく、その記憶の数々はまるで兄Quiquiが妹Amberの子育てを手伝ってくれているような感覚になってくるから不思議だ。

私はペットロスだった。

絶対に塞がることはないと思っていた穴は、Quiquiと一緒にAmberを育てている感覚になることで、少しずつ塞がってきているんだと思う。
肉体はなくなっても、一緒に生きている感じってこういうことなんだと思う。

ふと書きたくなったタイミングが5月25日、命日。


Quiquiそっちはどうですか〜
こちらはAmberに振り回されて大変よ〜
笑ってみててね :)

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上:Quiqui3ヶ月
下:Amber2.5ヶ月



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